私の師匠は現世利益追求の聖天信仰の先には観音信仰がでてこなくてはいけないといっていた。
自利から利他の菩薩行へのシフトがなくてはいけない。
昔は聖天信仰で大願成就した大事業家や一流人などは邸内に観音堂を建てた。
聖天堂ではなく、本地の十一面堂を建てた。
それで昔、篤信者に本式の白檀の十一面観音を作って頒布したが師匠にいわせるとよく保てるものがなかったという。
感謝や報恩でなく、尊像を買えば余計ご利益があると思って求めたからだろう。
残念なことだと語っていた。
最終的には得度して修行するものの手元にのみ残った。
私を含めわずか三名。
私は薄徳の若年の身であったが観世音はそれでもわが修行を憐れみ給うたのだと思う。
あとの二人はやはり得度した霊能者であった。
以後、在家においては十一面尊の尊像を祀ることは師匠はさせなかったと思う。
だから聖天像でなくても十一面尊を祀るのには用意がいるのだ。
さて、施餓鬼においては相手が餓鬼でさえ「先に道を得るものは誓って相度脱せんことを」と言ってきかす。
けだし、いつまでも成長のない信仰は神仏から捨てられるのだ。
例えば聖天信仰は思い切りが大事だから大願あれば祈願料をドンと積み込んで祈願を叶える。
それでよしんばどんなにご利益があっても、永遠にそんなやり方だけを延々といつまでもしてちゃいけない。
成長がない。それではいつか感応がぴたりと止む。
聖天尊自体は第六金山に住む天尊であって我々のささげる世俗の財宝など所詮目ではないのだ。だが布施波羅蜜の方便の故に受けてくださる。
観音信仰にシフトといっても聖天様の信仰をやめて観音信仰するわけじゃない。内容が観音信仰になっていく。天尊を菩薩に昇華する。
菩薩の心が出てくる。
利他の心を大事にする。
そうした観音信仰の果てには今度は阿弥陀の浄土信仰があるという。
観世音菩薩は極楽浄土の使者だ。
阿弥陀仏の化身でもある。
この世の欲のない世界を目指す。
その世界で救済者の側に立つ修行を積んでいく。
そういう聖天信仰のいきつく先を教えてくれたのが師匠だ。
ただただ、最後の最後まで欲まみれ、煩悩まみれの信仰で失敗して「聖天様は恐ろしい」などというのは天尊からすれば心外というべきだろう。