金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

古仏の扱いは難しい その2

その昔、作行の善い稲荷を手に入れた。これは岡山の「最上稲荷」という法華の稲荷であった。

これを是非欲しいという弟子があり、開眼しなおして授けたが日ならずして体に変調をきたし、五体加持をしたところ、最上稲荷が現れて

「われは法華の稲荷である。何ゆえ題目が上がらぬ!」と厳しく口走った。

 

「最上稲荷」自体は備中・高松稲荷といわれ、吉野の修験である自然智宗・報恩大師の勧請であり、江戸時代に藩主の意向で日蓮宗に改宗したが、もとは長く天台宗だったからよかろうと思ったが、これは大いに私の誤算であった。

 

こういう時口走るのは実は高松稲荷より開眼した僧侶の霊である。

開眼したらその僧侶を通すのでどうしてもそうなる。

像は江戸時代、開眼は日蓮宗でした尊像だ。

つまり簡単に作法しただけではしっかり抜けていなかったのだ。

発遣作法自体は実に短いので、簡単にそれで抜けてると思っていたのが間違いだった。

この場合、発遣して開眼しなおさず稲荷と霊媒で交渉して、密教よりも天台でもよく唱える「十如是」や「自我偈」などをあげることで承知してもらった。

 

このように開眼した僧侶や祀った人の念は残る。強い厳力がある人や思い入れ深く信仰した人がいればそれだけ強い。( 故人の多家や他家の先祖供養のものはわかっていれば求めてはダメだ )

だから開眼するならだれでもいいのではなく、なるべく信仰の厚く法に熟達した僧侶に頼むのが良い。

このことから最近、古い仏の発遣は厳重に作法しなくてはならず、発遣自体は簡単ではあるが存知すれば、発遣する前に一尊法、天部なら本地供くらいは厳修すべきだと考えている。

それがいままで活躍してきた尊像への礼儀。勧請主や開眼した僧侶への礼儀である。

そうして初めて本格的に開眼するのである。

地蔵や阿弥陀などは特定の個人のための供養に作られたものもあるし、明王などは人を呪詛したものもある。

簡単ではない。区切りが必要なのだ。

古仏は最低でも二回拝む故どうしても祈願料は高くつくが仏は軽々に祀るものではなく、そのくらいの覚悟はいると思う。