以前にある真言を30万遍ととなえたが祈願が叶わない。もう、かくなる上は100万遍に挑むという人のはなしを聞いた。
水を差すようで申し訳ないがおそらく100万遍でも無理だろう。
真言が足らないのではない。方向性が間違っている。
祈願はそういうものではない。別に神仏はあなたが刻苦して何かをしないとかなえないとかは言わない。
だが、自分の心の中で叶い難い事と思えばこそ、なしがたいことをして代償にしたらいいのでは?という思いがあるのみだ。
それはどこまでも思い込みというもの。
修行の場合は逆にどれだけでも自分で厳しくしたければそれでいい。
なにかの特定の祈願ためではない自分の信仰を磨くのが宗教的行法というものだ。
四国遍路をすべて歩きで行くという修行を課された時のこと。
師匠から「願い事をしてはならない。天下泰平万民豊楽のみ祈りなさい」といわれた。
それでないと修行ではない。
今思えば「これだけのことをして願いを掛けない方はない」というのが素人考えだ。
「これだけのことをするのだから、修行にしない方がもったいない」が正しいのだ。