密教には三昧耶戒のうちに「不応慳悋正法戒」(正法を伝えることを惜しんではならない)があるのに、なぜどこでも簡単委員や真言を教えてくれないのか?という質問。
阿闍梨さんならだれでも授かっているはず。
これは簡単なことです。
おしんではいけないのは「正法」で「密教という法のスタイル」ではない。
人には人に合った正法のスタイルがある。
例えば准胝独部法。
これは肉を食べ、お酒を飲み、禁欲を要さない。
最も誰にでも適合した法です。
あるいはただひたすら宝篋印陀羅尼を唱える。宝篋印陀羅尼の儀軌には亡者のために名を唱えて七辺となえれば「破地獄」になると書いてある。そこで印を結ぶことは書いていない。
宝塔を作り礼拝せばを昼夜神仏が守ってくださるという。
だからと言って法として浅いとか
もっと良い法がこの奥にあるのではない。独部法も宝筐印陀羅尼の読誦も素晴らしい法です。
あるいはひたすら般若経や法華経のような大乗経典を読み、書写し、勉強するのも正法です。
密教を熱望するならそれなりの手順を踏めばよい。
だがそこが難しい。
准胝独部法から入ってほかの教法を受ける。
とたんに色々な禁忌を守らないとならない。
うちは僧院ではないからどうしてもやりたいという方には人により家での修行を許していますが。例えば十八道行法にしても一定期間は精進料理を作り、酒を飲まず、タバコを吸わず、若い夫婦であっても夫婦生活はしない。そうして行う。
料理を別につくるだけでも大変。それでは家庭崩壊につながるかも・・・
だから三十代、四十代といった年代の夫婦では夫婦ともに得度して行でもしない限りは許可しない。
夫婦がともに行したら今度はしわ寄せは子供に行く。育ち盛りの子供に肉や魚を食べさせない。いかなる宗教行為も子供を犠牲にすることは許されない。
それじゃ変な新宗教と変わらない。
とても許可できない。それは今後も同じ。
一洛叉、あるいは護摩は家ではできないから会社も休まないといけない。まあ、それで一応加行は終えたとしても本当に行者となるなら「何とか法」を千座とかする。その間同じなわけです。
長期間なので食べ物は四つ足だけ禁じたとしても他ほぼ同じ。
ですからザックリ言えば高野山や比叡山などの諸山に入って修行するまでの心つもりがあるのか?
趣味ではなく僧としてしていけるのかということですね。
在家での修行だから楽なのではなく困難なのだと思います。
やたら授けないのもある意味、衆生利益です。
はっきり言って家族も巻き込むし、片手間じゃできませんよ。