遠くにいると暖かく、過度に近づけばむしろ冷ややか。
私の出会ったひとかどの宗教人は皆そうだった。
近づくほどにベタベタと濃厚な付き合いをする人
少し遠くにいるとなんの心映えも感じない人。
それは違う。そういうのではない。
平等なるゆえに等距離において暖かく
私無きゆえに過度に近づてけばむしろ冷淡に突き放すような感じさえ感じる
そう言うことだと思う。
人に対し邪な心を持たぬ人でいるためには、むしろ人に期待したり、特別な想いを掛けたりするより、期待もかけず、特別に想いも寄せない冷たさのほうがが役に立つ。
ある意味人間味にかけるかもしれないがそこは大事だ。
私の考えはまちがっているかもしれないが、それ以外にはないと思った。
若しまちがっていればご教示いただければ幸いである。
そうでないと裏切られたと言って憎み、期待外れでまた泣いたり、罵ったりする。
感情の雨嵐のやむときはない。
釈尊は親子関係について言われている
「己自身すら己のものとは言えないのだ。
どうして子供が自分のものであろうか。」
この延長でいえば、妻も夫も親もみなそうだ。恋人も友人もそうだ。
他人様ならもっとそうだろう。
たとえば恋愛の失敗の多くは馴れ合いの生む馬鹿げた妄想に過度の期待をすることだ。
恋人がいればきっと幸せ!というのも時間が一時的に作り出すイリュージョンだ。
人に自分の望みをかける。
それでは菩薩行はできない。
それでいてどこまでも暖かく慈悲の人であらねばいけない。
そのためには冷たくて暖かい人でなければいけないのだ。
相手がどう感じるかではない。何が必要かなのだろう。
それが忍辱慈悲の人と思って精進したいと思う。
これは終生の課題。
君子の交わりは水のごとしというではないか。
相手がどんな人でさえそうあらねばならない。
この年になってわが人生を振り返り、ここは甚だ不徹底であったと反省しきりである。