いっさいの人も物も我がうちにある。
ほかにはない。
いやそんなバカな、この机は見られるし、触れるじゃないか?
たたけば音だってする。
そういうけどそれは身識や眼識、耳識を通して得たものだ。
それが机だけであろうはずはない。
会社も家族も東京スカイツリーも犬も猫も赤の他人も存在するものはみなそうだ。
人法無我
一法として存在しないとはそういうことだ。
自分も自分というものを通しているだけ。
金剛経ではすべてを「相」すがたかたちと表現する。
大事なことは自分がそういう風に認識していると知ること。
だからこれもそとになどない。
これは金剛経に釈すれば「我」ということ。
だが大事なことはそういう認識が起きているだけで自分だけはあると感じるならばそれはひとつの精神疾患だ。
マーヤー(幻影)なのはすべてだ。自分を抜きにしてはいけない。
大事なことはそれを認識している自分もないということ。
そこに「無」が出てくる。
これを「無 我 相」という表現をする。
いずれが真実でもいずれが間違いでもない。
どれかが真実だというのはただしい解釈をえていない。
それは仏教の理解から外れていると思う。