神将や荒神、摩利支天、明王など忿怒尊を祀る時、とかく迫力あるお像を祀りたいという人は多い。
だがこれには程がある。
余りに怒りの表現がオーバーなものはよろしくない。
最近はただやたら怒りの表現ばかり強調して酒飲みのオヤジがただ怒鳴っているような作りのものを感じる
怒りの内にも品位や慈悲がにじみ出るような尊像が良い。
不動明王なども不動の心を表すのであるから、そもそも口を開いて呵責するようなものは儀軌的に間違っている。口はしっかり閉じているのが正しい。
愛染明王はまなじりは怒りを帯びて釣り上げるが口元はやや笑うようにつくるのが上手な作り方で、貴人の瞋怒するように作る。顔は不動尊のようにゴツゴツとせず丸く作るのが良いとされる。
いずれも内面的な煩悩や悪業への怒りの表現が感じられねばならず、誰か個人に向かって怒っているようなものはダメである。
不動は奴僕の三昧、愛染は王者の三昧にある。
師匠はそういう意味で余り度を越した怒りの表現ばかりを強調した尊像は好ましくないと語っていた。
上手な作りでも度を越して怒り形相のものは騒動や災難の鎮静を祈る折にはよいが、普段に祈るには逆にもめ事や騒乱を呼ぶことすらある。
古仏の場合は調伏祈願のために作ったものもあるので怖い。
そういう因縁をもたらしてしまう。
故に怒りの形相すさまじい尊像は秘して祀ることが多い。
基本的に顕に祀らないほうが無事だ。
聖天のような獣面のものもその意味では忿怒尊に準じる。