ある老師が亡くなられた。
御年83歳 禅を以て諸国遊行の末、山中に住まい、武を練り、最後まで病院にもいかないで安らかに旅立たれたと聞いた。
実に数奇な一生を送られた老師であった。
禅の人で臨済禅の大森曹玄老師のお弟子であった。
そして私の気功の師である「自然身法」の出口衆太郎師の師匠のひとりである。
この方との対面でのおはなしは衝撃的だった。
「老師、人間の幸せとはどうお考えでしょうか?」とお尋ねすると
「そんなものないでしょ。普通にご飯食べて呼吸して生きていていりゃあそれで充分。それで不足がありますか?」といわれた。
積年の迷いが吹っ飛んだ思いだ。
実に小気味いい。
「しあわせ」になる。
実はこれくらい人を惑わす言葉はない。
大概の人は「幸せ」という名のもとにありもしないもののをイメージで追っかけているのだ。
それはこの世で龍や鳳凰を探すのに異ならない。
それが証拠にいくらお金がもうかっても幸せにはならないという。
ある報告ではアメリカでは年収8万ドル以上の人の幸せ感は大差ないらしい。
日本でいえば1000万円弱だ。
老師は若いころ、あまりの病身で死のうと考えて入水したが、自然と泳いでいる自分を見出したという。
そこに自分の迷いとは関係なく生きようとする自らの命の意志を見出されたのだろう。
「生きていれば十分でしょう」の原点はそこにあるのだろう。
それがそのまま「しあわせ」だ。生かされているという大事実の前にはいかなる幸せも色あせる。
臨済禅でいう「仏に逢っては仏を殺し、祖師に逢っては祖師を殺し・・・」というのがあるが「幸せにあっては幸せ」を殺さねばならぬ。
「しあわせ」は「特別なイベント」でなくてはならないという人生最大の詐欺にひっかることなく生きたいものだ。