ある難病の方の御祈願。
拝んでみたら宗教的な加護が全く感じられない。
おそらく今まではご先祖とか神仏とかに無関心で過ごしていらしたのかと思う。
たいがいは先祖ぐらいは心配してくれる。
先祖が怒っているとかではなく、こちらが全く意識しないと先祖がつながらないのだ。
別にそれが罰が当たるだとかということではないが・・・・これだといわゆる「お陰」がない。
こういうケースの問題を祈るのは陰徳から拝まないといけない。
「おかげさま」というのは見えないものへの配慮、感謝だ。
別に亡くなった先祖や神仏ばかりではない。
例えばお食事にしても、作った人。食材を提供する人。食材となった動植物。
目の前にいない人への感謝。
日本人は日常習慣のなかにそれを取り込んできた。
だから誰でもちょっと昔までは「おかげさま」というのが理解できた。
最近は「死んだらおしまい、葬儀に金なんかかけてやっても意味ない。神参りなんか非科学的でバカバカしい。」などという人間もいれば、果ては学校給食で子供に「いただきます」言わせるとは何事だ。給食費は俺が払っているんだろ!というような無理解な人間もいる。
もう話しにならぬ。
これではお陰様はできないね。
結果からして見えないものの守護がえられない。
別に特別なことをしなくても神社仏閣を見れば首を垂れ、仏壇には合掌する。
こういうことが自然となって目に見えないバリヤーはできています。
でもそんなの要らないという人にはバリヤーはない。
最近はそういう人も少なくないと思う。
残念なことだ。
昔、越後の戦国武将で毘沙門天に深く信仰を寄せた上杉謙信はこういっている。
自分が毘沙門天を100辺礼拝すれば、毘沙門天も30辺、50辺とまた自分を礼拝するのだと。
お陰とか御守護とはそうして生まれるものだ。