自由イメージの瞑想。
次々心から浮かんでくるもの。
これは自由に連想することを奨励しなくてもそういう心の癖のある人は何をしてもそうなる傾向はあるだろう。
例えばの話、密教の観想でも「私の場合はお不動様が剣でなく槍を持って出てくるんです。」という修行者があったとしよう。
「槍でいいですか?」に対して「いいでしょう。」というのは構わない。
ただし密教行法でならそこはダメである。
密教には密教のルールがある。それが儀軌だ。
世の中には変わったお像もある。弘法大師さまでも剣を持っているのもある。
歓喜童子や九頭の鳳凰にのる観音像。いろいろあろう。
これらは感見によるものだろう。
古来より、ひたすら行に打ち込む僧の逸話にはままある。
近くは先の善光寺貫主さまから金胎両部の四臂第一像を感得したという方からも実際話を伺った。
だったら槍を持つお不動様がいていいでしょう?と思うかもしれないがそれは違う。
勿論そういう尊像があっては絶対にいけないというのではない。
なによりも問題はそれをだれが見たのかである。
感見の像を見るくらいの人はその異形の像の出現した意味も瞬時に理解している。
だが人に「どうでしょう?」などと聞いているレベルではそれは夢妄想と変わらない。
それは認めてもらいたいだけだ。
かたや余人に認めてもらう必要のない已達のレベルである。
已達の阿闍梨でなく初行の人にそのようなものが出現する意味はまずない。
中には自分はそういう深いレベルにある阿闍梨方と同列だと言いたい人も暗にあるのだろうが幼児の戯言に代わらない。
特に自分で霊感があるなどという人はそういうのを認めれば後々いくらでもでてくるようになる。