人生に養生が必要だ。
備えあれば患いなし。
すべて時間とともに劣化する。
親もいなくなる。家も劣化する。
私はこのところ数年は其の連続だった。
母は亡くなる。
家は傷んで床はへこむ。
垣根は倒壊する。
でも家1960年代。ほぼ私と変わらない。
母は94歳
当たり前だ。
かく申す当の時分自身も劣化するのだ。(笑)
自然によくなることなど決してない。
「何かめでたい言葉」を書いてほしいと頼まれた名僧・一休宗純は
「親死 子死 孫死」と書いた。
当たり前があたり前であることが目出たいという卓見の産物だ。
それは見越しておかないと、それらは急にやってくるように見える。
実はそうではない。
そう見えるだけで実は日々時々刻々やってきている。目にわからぬだけだ。
それから慌てふためいても遅いのだ。
人は良きことや既成のことは永遠に続くと思いたい生き物だ。
頭でわかっていても気持ちがそうなのだろう。
例えば昔から言う「いつまでもあると思うな親と金」
「お前百までわしゃ九十九まで。いつも三月花のころ。使って減らない金千両」などありえない無理な願望の譬えだ。
神仏は何故守ってくれないの?
守れるわけない。
それは自分がしないといけないことだ。
お金の工面や健康の管理、いろいろな準備。備え。煩わしいそれをすることこそが人生なのだ。
万巻のお経をあげようが、霊山に毎月登ろうがそこはスルーできない。
そうして終いにはどんな人生も終わる。
いくら拝んでもやるべきことをせねばそれは人生の代用には絶対ならない。
そう思うのは愚かな迷信というものだ。
信仰とはいってみれば人生という料理をおいしくする調味料だ。適量がある。
かければかけるほどおいしくなどならぬ。
ましてや調味料だけ口にしても決して腹は膨れない。
肝に銘ずべきだ。