聖天様というとどんな願いでも叶えてくれると俗に言う。
「○○の聖天さんにお参りして祈ったらそのまんま即叶いました、あそこなんかヤバイんすかねえ?」といった若い人がいた。
「ヤバイ」というのは最近肯定的にも使うようだからいいたいことがどうなのか、いまひとつわからないが。本来の「危ない」という意味なら、どこの聖天様でも基本的にそれはある。
どう言う危なさかというと、まさにこの人が言う何でも叶ってしまう怖さだろう。
何でも叶ってしまうとわかったら何を祈るかでその人の人品は問われる。
禍々しい祈願も叶うかもしれない。
だがその最終的な結果も引き受けなければいけない。
それが道理だ。
ものごとというのはおいしい部分だけという訳に行かない。
それが因果というものだ。
たとえば「美酒を飲みたい」とたらふく飲むのは心地よいかもしれない。
だが、そうなれば翌日二日酔いで苦しむのは避けられないかもしれない。
万事そのようだ。いかに祈っても因果はくらますことはできない。
必ずしも「叶ったのは正しい願いだからだ」と言えないのが聖天様の怖さ。
「お前が願ったことだ。自分の尻は自分で拭け」というだろう。
責任は取ってはくれない。
因果というのを超える存在はない。
江戸の昔、生駒の湛海律師が自分は不動行者でありかったので当初は聖天の懇願を退け、天尊が恨み給うもあえてこれを拝まなかった。
その後 江戸で病気になった折に、さては聖天尊の恨みのゆえに病を得たと思っていたら、聖天尊が現れ「それは違う。悪い事はなんでも私の障礙と思うな。これは宿世の因果によって起こるところの病なれば、助けてやりたいが我でもいかんともできないぞ。」といわれたそうだ。
だから因果を恐れるべきだ。不昧因果である。
因果を超える道を説くものは外道の教である。
前世は知らず、少なくとこの世では道ならぬ横道の願いは慎まねばならない。
そして、そうならないためには尊天以上に常に十一面観音を念じていかねばいけない。
菩薩の存在を忘れてはいけない。
十一面観音のガードが強ければ強いほど邪な願いは叶わなくなる。
天部数ある中に大聖歓喜天とあえて大聖というのはこれがためだ。
絶大な天尊の力に菩薩の心が加わるからだ。
絶大な力にはそうしたモラルや規範がいる。
古来、歓喜天の中に双身天を最勝とするというのもこのためである。