仏教では進歩のない信仰はダメだ。
ほんとは何の教でもまともな宗教ならそうだろう。
信者として進歩するというのは多額の御寄進をしたり、高い御祈願を山ほど頼むこととは直に関係ない。
布教に足を棒にして入信者を連れてくるのも関係ない。
それが大事なのは新興宗教の信者さんだろう。
当院などは一般信徒の布教は禁止事項である。
だからわかっていない他所の宗教から来た人は当初、お供え物を毎度。毎度、これでもかと持ってきたり、人を誘って連れてきたりするのだが…本当はそんなことは必要ないのだ。
まあ、他所ではそれが信仰熱心ということなのだろう。
個人崇拝も関係ない。
要領よく私の関心を買えばOKと思う人に至っては最低である。
私などは皆さんと何一つ変わらぬ限りなく間違いも悩みも抱えたただの人間以外の何物でもない。言うも愚かなことだ。
私などどうでもよいのだ。
ここは道場である。
例えば剣術ならひたすら剣技を磨くことが肝要。いくら道場主を喜ばせても修練なくして剣技は上達しない。
なんの足しにもならぬ。
信仰はそんなことよりまず自分の心を養うことこそ大事なのだ。
進歩とは信仰した甲斐のある人になること。
貪瞋痴をおさめ、布施、持戒、忍辱、精進。お勤めや宗教行為をしてそこから糧を得られる人だ。
何よりも慈悲の人でなくてはいけない。これは必ずしも表向き優しい人になることではない。慈悲も知恵を欠けば大きな誤りとなる。
かくいう私も同じ道を歩むものでしかない。少し先に歩み出しただけだ。
なかなか至らぬ思いは皆と少しも変わらない。
ただ亀の歩みのようにように遅くともしっかりと前に進むことが大事だ。
前にも言ったが信仰には節目がある。
祈願を頼むだけのレベル
熱心に願い事を拝むだけのレベル
最初はいいがこれらはやがて通用しなくなる時が必ず来る。
そんなことだけで済むなら仏の教えはいらないのだ。