邪教に騙され無茶な寄付をする人もいるが、そうでなくても寺社に寄付さえしていれば福徳がつめるという愚かな人もいる。
方々でおカネをばらまいて自分がよくなると思い込む。
最悪なのは免罪符の様に恐怖からおカネをばらまく、無茶な寄付をする行為だ。
統一教会など江戸時代の沙汰なら禁教、全員捕縛、投獄だろう。
寺社への寄付は「喜捨」と言って代償を考えないからこそ浄いのです。
喜んで捨てるのはお金より執着やあらぬ期待でなくては喜捨にならぬ。
梁の武帝が達磨大師に多くの堂塔伽藍を建て僧尼を養う功徳を問うたのと同じだ。
達磨は喝破した。「ならびに無功徳!」
この「功徳」というのも無形の利益の当て込みだ。
真実の功徳は当て込みのない無功徳の功徳だ。
うまうまと徳川家康の口車に乗って、太閤殿下の供養だから、豊臣家の弥栄のお為だからと、際限なく大阪城の財宝を寺社の修復につぎ込んだ結果、豊臣秀頼や淀殿はどうなったか?
歴史を見れば明らかだ。