金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

自分自身で何とかせよ

若い二十代のころ講習会であった女性行者kさんの話。

当時もうかなり年配の方だったが、この方の話では若いころ、自分のちょっとした間違いから四国独特の魔物である「犬神」と神社の守護者である「狛犬」が争い、その障礙を受けて熱が下がらず。自転車で苦しみながらも20キロの夜道を行き自分の師匠に救いを求めにいったという。

 

その師匠というのが梅本院の田辺辰嶽師で霊峰石鎚山で錬行を重ね、法力に優れた屈指の行者であった。

私の師匠もいろいろ教わったという方だ。

kさんの話を聞くや田辺師は

「なんだ。そんなつまらぬ用件でこの夜分に私を尋ねてきたのか?馬鹿め。

お前も行者のはしくれならそんなもの自分でなんとかせよ。帰れ‼」

とkさんの救いを求める懇願を一蹴して追い返した。

 

kさんは仕方なくまた20キロの深夜の道をふらふらしながら自転車で引き返し、部屋で護身刀を枕元において必死に朝まで不動明王の慈救の呪を唱えたという。というのは一間あまりも間隔を措いて闇のなかにギラギラと光る大きな目を彼女の霊眼は見ていたのであった。

はたして犬神か?あるいは狛犬か?

夜が明けるあたりが白むとともに熱もひいて件の魔物は去って行ったという。

 

この様に行者というのは自分の験力一つで立ち向かわねば行者とはいわれない。

今の感覚なら田辺師を酷いと思う人も多いだろうが、私はそう思わない。

もしそうでないなら一人間の行者はできてこない。

この師あってこそと思う。

しまいにはこの女性行者は拝み一本で寺を建てるまでになった。

 

ただ、私が同じような場面で田辺師のような息も絶え絶えの相手を決然として突っ放した態度に出るかといえばそれはたぶんない。

だが、それは私が慈愛が深い人間だからそうできないということでは全くない。

なんとなれば自分でなんとかしろと言っても、k師の様にかかる難儀も自力で奮戦し前に進めるだけ弟子はおそらくいなかろうと思うからだ。

省みればそれは弟子の資質がどうこうという以前に多分に愚かな私の指導力のなさの結末でもあろう。

実に恥じ入る話だ。

 

とはいえ些細なことでやれ霊が出たの、念が来たのなどと言って素人同然にうろたえるのは行者の面汚しである。

ましてや護摩も焚いた。九字も伝授されたというレベルはもうそのへんの素人ではないのだ。

それは腰に大小の刀を帯びる武士が町のごろつきに出会ったからといって怖がって逃げてくるようなものだ。

戦さ場で強そうな相手が出てきても逃げられはしない。同じことだ。

祈願者の立つその場はいつ何時「戦さ場」になっても不思議ではない。

 

「自分自身で何とかせよ」

 

それ以外に言うことはない。

まれに行者でありながら、たいしたものでもない霊や人の念を理由に世迷言をいうものがいる。

そういう人間は護摩が焚けようが九字を切ることができようがもはや私は行者とは思わない。