鎮宅霊符神とは家の柱を拝む。柱を強化する。
家の柱、モノとしての柱じゃない。家も家屋ではない
柱が強化されれば様々な不祥は消え、「禍つもの」は去る。
この家とは単的に言うなら古くは当に日教組が目の敵にして来た「家」のことだ。
ただしそれは即一家の主のことでもない。
主婦も働き、夫も働きであってもそこに柱はある。
誰もが平等に扱われるべき現代でも柱はある。
家族は柱のもとに無意識にそれに随って生きている。
誰が命じるわけでも強制するわけでもない。自然に発生する。
私はそれこそが「家」だと思う。
昔は空間的な家の柱は主婦を筆頭に女性だ。
時間的な家の柱は主人を筆頭に男性だった。
そこに生きていく人々のよって立つべき在り方とでもいおうか。
霊系と言ってもいいだろう。家の霊とでも言うべきか。
この考えは現代人には難しい。
例えば昔の殿様は藩の中心だが、藩全てが殿様に従属しているわけじゃない。
藩のため、お家のためにに殿様が隠居したり、場合によっては腹も切る。
現代でも社長は社の顔だが会社の全てじゃない、社の都合では更迭も起きる。
引退もある。
そこには昔の藩だろうが、会社だろうが、家だろうが無形の柱がある。
同じように国にも柱がある。日本の場合はかたちとしては皇室だ。
ただしそれは形であって仮の存在だ。形は必要だ。
その奥には日本という国の神代の昔から培ってきた習合無意識がある。
平等の精神のもとに皇室などなくしてしまえという人たちがいるがそういう左巻きにはこの話は到底分からないだろう。
皆が平等であるためには柱が必要だ。大黒柱が他の柱と平等になってしまったら役割は果たさない。
鎮護国家のみ修法は国の柱を拝む。
鎮宅霊符法は家の柱を拝む。
支柱が倒れれば家も国も傾く。
一人住まいだが柱はあるのか?と聞いた人がいた。
一人でも人がいる以上家に柱はある。
その人とは別にあるのだ。
誰もいなくなればそれもなくなる。
「家」とはある意味、そこに住む人の未来へのヴィジョンでもあるからだ。