明王には結界と降伏の大きな役割があります。
不動明王以外の四大明王があまり単独で祀られないわけは、かの尊の誓願は降伏の願海だからです。その心は燃え滾る炎の海だ。
そこに躊躇は一切ない、まあ、そういうのも長い歴史の上では必要があったのだろうね。
即ち祈る人が彼らの誓願に訴えたらもうそのままに動く。
それが正しいのかそうでないかはすべて祈る人の判断にかかっている。
そういうレベルの尊だ。責任はすべて自分に来る。
ミサイルのボタン押しておいて知らぬ顔はできない。
拝めば四大明王の降伏はそういうことになる。
彼らは大忿怒の塊だからミサイル発射と同じだ。躊躇なし。
ミサイル発射が必要なのかどうかは阿闍梨の判断。
業報もそこにくる。
刀を抜けばその責任は刀でなく抜いた人にある。
抑々、降伏の祈願というのはトラブルの祈願であり、まるきり一方が正義ということはすくない。
これは止めないと大変なことになるという時のみに行われるものだ。
だから修練を得た阿闍梨以外はこれらは拝んではならないものだ。
一般の人が憎い誰かを呪って明王の真言を唱えても耳に届かず相手にされない。
ミサイルのボタンは誰でも触れるわけではない。
効果はない。だが邪念に便りを得て魔衆は集まるので自分には害はあるだろう。
だからもし一般の人が拝むなら五大尊でないといけない。
不動尊は明王ご自身が判断をもっているから。
不動尊を通すと必要のない降伏は行われない。
不動尊以外の四大明王を単尊に拝むなら専守防衛が良い。結界だ。
降伏などすればまず血に飢えた悪魔どもが集まるから自分の身の上にも周囲にも良いことはない。
肉を切らせて骨を断つ覚悟でないとダメだ。
悪いことが自分も含め周囲で頻々と起きるならそれは活動し始めている証拠だ。
今はもう全くないが降伏祈願してもらえないかという依頼が以前はあった。
だが、そんな肉を切らせて骨を断つようなもの依頼されたからといってホイホイやるバカはいない。
おそらく、どんなものか、まるでわかっていないで頼んでいるのだろう。
眼に見えない世界から一太刀浴びせるのだからこちらは無傷と思うのだろうか。
戦争になれば勝っても無傷ではないのと道理は同じこと。
だが結界として祈る場合は攻めてくるミサイルを落とす迎撃システムとして働く。
これは息災の一種なのでなにも問題はない。
祈るならこれだ。