一日たって振りかえってみると「化け猫あんずちゃん」には二人の中年男性が出てくる。
かりんちゃんの父「哲也」
働かないで借金まみれのグータラおやじ、小学生5年の娘から千円借りるのにも躊躇ない。
かたや祖父の寺に住むあんずちゃんは化け猫設定だが37歳のオヤジ猫。
あんずちゃんも寒いオヤジギャグを臆面なく飛ばし、おならも平気で連発、立小便もそこらでして和尚に注意される。
かりんちゃんには年上らしく猫ながら上から目線でものももうす。
両方とも、かりんちゃんのような思春期の女子が拒否する中年男性の無神経さむき出しだが、それでいてふたりは非常に対照的でもある。
あんずちゃんは妖怪とはいえなんだかんだ言って社会に溶け込み、「もみ療治」をしては喜ばれ、効率よく放流したアユを襲う川鵜を追い払っては地域でたよりにされて生きているのだ。大人はもとより地域の子供や人間ならぬ妖怪たちとの付き合いもまめだ。
あんずちゃんは言ってみればむかしはよくあった「町の良きおっさん」なのだ。
かたや父・哲也はそうじゃない。女房も子供もあるが社会的にちぐはぐだ。
本質はガキだ。自分のいことしか頭にない。そこがあんずちゃんとは全く違う。
娘は捨てられたとしか思っていない。寺では理由も言わずに金を無心して実父に出て行けとまで言われる。
あんずちゃんの言動には深い大人の考えや洞察も見える。
先を見通した考えもある。
それは子供にはまだないものだ。
だから必要なものでもある。それは「良きおっさん」のものなのだ。
あんずちゃんにはある意味、中年オヤジの「復権」が見える。
たったひと夏をともに過ごした化け猫あんずちゃん彼は本来父親が持っているべきものがあった。