密教の種字には各々意味がある。
尊格によって異なる。
例えば不動尊はカ-ンで因業不可得。
昔ある学生が訪ねてきて「密教の本質って何ですか?」ときかれたことがある。
密教の本質とは何かと問われれば学問的にはどういう経緯で成立したかなどと言うことは調べられよう。学問的にはそうだろう。
だが密教そのものの本質などない。
「人法無我」本質などないというのが仏教の教えだ。
ゆえに不可得だ。不可得のまま会得しないといけない。
戯論いたすまじ。
色々物知りになるのもいいが教養は積めても、真如に近づくことはまた別だから。
物知りになるほど堂々巡りになる人もいる。
信仰自体にはそれはいらない。
法然上人も「知者の振る舞いすべからず」と言い、親鸞上人も「一文不知の尼像の如くにあれ」といわれている。
ただの言葉の遊びにすぎぬがこの「不可得」ということがあえて言えば本質だろう。
どうしても学問的に納得したいというのは仕方ないが、それも言ってみればその人間の業に過ぎない。
真如に近づく上では必ずしも一文不知の人に比べ学問のある人が勝れているわけでもなかろう。