降三世明王と歓喜天。
なんとなく、よくない組み合わせのように思われている。
降三世明王は歓喜天の父母神である大自在天と烏摩后を踏んでいるからというのが主な理由だと思う。
しかし、実際に拝んでみると実はむしろ必要な尊だとすら思う。
大自在天は強く踏まれていてこれは根本煩悩を表す。
烏摩后は軽く踏み、所知障を表す。
絶命のさ中、大自在天は第八地に到り、かの天と后はそののち普賢延命の力によって蘇生されたという。
聖天信仰はとかく毒々しい祈願を持ち込むが、そうした祈願は煩悩熾盛であり、まさに降伏すべき心から出ている心も少なくない。
チベットでヴィグナンタカと言われる軍荼利明王は思い切り聖天そのものを踏んでいる。
大黒天であるマハーカーラもそうだ。
だがこの明王も大黒天はわが国の聖天信仰では嫌わない。
軍荼利明王は歓喜天の眷属であるビナーヤカの暴走を抑える尊。
降三世明王は煩悩自体の暴走を抑える尊である。
金剛界を代表する明王として胎蔵界の不動明王とよく一対で祀る重要な明王だ。
幕末の天台僧・願海阿闍梨は明治帝のご誕生を祈って功があったが、この時にも歓喜天の浴油と尊勝仏頂法を拝まれた。
尊勝仏頂曼荼羅には下方に降三世と不動を描く。
歓喜天を拝む行者は内外の煩悩を去り、祈願清浄のために降三世明王はむしろ拝むべきだとさえ思う。