馬頭観音は諸観音中で慈悲が最も深いという。
だが・・・それは何ゆえだろうか?
それはかの観音が明王でもあるからだと思う。
「馬頭明王」
明王は強剛難化の救済を旨とする。
つまり尋常な手立てで救えない悪しき業が深く仏教に疎遠なものも救いたまうのである。
観世音菩薩はこの観音を除くと大慈大悲ながら、概ねその誓願を頼む声を聴いて救いたまうのである。
声をあげねば、誓願を頼まぬねば、応えたまわない。
そういう者は救いようがない。
たとえば施餓鬼や破地獄の行法は頼まれるのは地獄の亡者や餓鬼からではない。
あくまで供養したい人の要請を受けての行法となる。要するに頼む人の信仰を抜きにはできないのだ。
故に十一面尊観音の祈願を頼まれても、寝たきりの御病人や幼児は受けることはあるが、御本人が手を合わさない場合は効験は届きにくいことになる。
健康な成人が対象の祈願においては、ご自分の希望であるにもかかわらずご本人が拝まないということなら原則お断りしている。
それでもあえて頼まれてすることもあるが、その場合はご本人ではなく、信者さんの心願成就としてする形になる。
観音自身には衆生無辺誓願度の誓願があるが、届かねば救いがたいのだ。
観世音は、なによりも、まず「なにとぞ、助けたまえ!」という声に感応して働かれるみほとけだ。
故に観世音という。
そこに行くと明王はもとより信心薄い第三者の救済も破折して救いたまう。
ただしそのありかたは強剛難化だから甚だ荒っぽいこともある。
いわゆる逆縁も救いたまう。
なかでも馬頭観音は物言わぬ鳥獣魚虫まで遍く救うという。
これは明王であるからなのだと思う。
強剛難化の謂いとは悪道の衆生を対象とする手段を持つ故だ。
彼らは動物であるから手を合わすことはできない。
仏教の信仰はできず苦は甚だ多い。
だが人が彼らに代わって祈れば感応を生じる。
もし、あなたが誰かのために人知れず祈ってあげたいというなら馬頭観音を祈るが良いだろうと思う。
そのうちに門下に馬頭観音の道場ができる予定だ。