飯縄さまは蛇、狐、鷲を修験道の本尊不動明王にかたどり、あるいは迦楼羅天のお姿となっている。
むかし、師匠が「あれは迦楼羅天だろう、よく見てごらん。おんなじだろう。」といわれた。
まあ、なるほどそうだと思ったのだが、実はこの姿は山における大自然の集合体でもある。
狐は獣、鷲は飛ぶもの、ヘビは這うものの代表だ。
飯縄さまの力はいってみれば自然の力なのだ。
この鳥獣のような魔王の姿こそが根本大日如来の正体なのだと飯縄の教えには言う。
自然の生命の力とは息吹だ。呼吸せぬ生き物は一つもいない。
伊吹は命の綱、だから生綱転じて「いずな」と呼ぶ。
修験道具では「貝の緒」だ。修験者が腰に巻く命綱が「貝の緒」
しかし、貝の緒は実は「へその緒」の象徴である。
法羅貝をつないておくので貝の緒。
そして法螺貝は梵字の鑁字に当てられる。
立てみればわかる。貝の穴が空間で先が下になる形でわかる。
このゆえに法羅を吹くことを立てるという。
法羅は仏の息吹だ。故に三界の妄夢を覚ます。
三界の妄夢とは自然智をわすれた状態。
飯縄様は自然の力そのものだ。
だから早いのだ。
本来的だからだ。
なにかまったく別なものに作り替えるわけではない。
自然に本来に戻るだけ。
故に自然でない祈りには感応しない。
その霊験は本来自然の姿に還すというだけのことだ。それに尽きる。
神道ではお稲荷さまの一種だ。だから狐さんがいる。
ダキニ天とも言われる。
何故なら山は稲作に必要な水クマリのもとだからだ。
山あってこそ田も潤う。日本に稲作ができてからの原初の信仰。
ゆえに頂に稲荷神の宇賀神(ウカノミタマ)を頂く。迦楼羅天の場合は如意宝珠を頂く。
同じ意味だ。