聖天信仰は「聖天さまは怖い」「聖天様は難しい」とよく聞く。
私も若い内から沢山きかされてきた。
実は聖天信仰の難しさは「聖天さまは怖い」「聖天様は難しい」という人には訪れない。
人もうらやむ御利益をドンドンもらえるような人の油断から一挙に来るものだ。
うまくいのが当たり前になると人間油断するものだ。
こうした油断が一点その人をどん底に突き落とすことになるのが天部信仰の難しさだ。
なぜなら人間は大きな経済力を手に有入れたり、自由自在の力を得ればその人の本性が出てくるものだ。
それは天部全てに言える。
昔、ある資産家がある天部信仰のご利益で戦災で傷んだ本堂を作り替えるほどの寄進をしたが、そうした人につきもののそうした油断から一転転落した話を聞いた。
悪事を働いたわけではなくある「霊的な忠告」をご利益ほしさに無視した結果だという。
それはある珍しい掛け軸を入手して祀ったことからはじまった。
それを祀りたちまち大繁盛したが、ある霊能ある行者から「あんたの家にはこれこれおこういう尊い画像があるだろ。それは在家の持つ者じゃない。もう軸はあなたに恩は返したはずだ。そろそろ寺におさめろ。」といわれたのを無視したのだ。
神、人をして言わしめるである。
無視した結果今度はたちまちに衰微してしまった。結果、すべてを失ってその画像をおさめたがなんと画像は今はもうないその寺の分院のものだったという。その寺の先代は「あれだけのことをいsてくれた人なのに、天尊は分からない…」と悩んでいたそうだ。
天尊にしてみれば人間のお布施などもとよりしれたものだ。
七堂伽藍を絶てたとk路でたいしたものではない。
大事なのは真心だ。
この掛け軸、後に今度は、ある映画監督が自己の霊感でさがしだし信仰し出して、おおいにヒットを連発したが…最終的にはやはり同じような結果となったとか。
行者は信者の生活や考え、行いのすべてを知っているわけではない。
どこでどういうボタンの掛け違いがあったか、
その細かいところは当人にしかわからない。
ゆえに天部信仰するなら深く仏教にこころざし、常に貪瞋痴の三毒を戒めねばいけない。
その心こそが障礙を受けない唯一最高のお守りである。
本当に天部信仰で成功した人は常に周囲や社会の利益も忘れないものである。
我利我利亡者はしまいにすべてを失うのが天部信仰の怖さだ。
ゆえにこの人だったら一度はよくなってもきっとダメになると思う人には大きな祈願はさせない。
大きな御利益は天尊から借りたご利益と思い謙虚を第一としたい。
聖天様などは典型的だ。驚くような御利益をもらう人がえって失敗する。
祈祷料を払ったのだからそれで済んだと思ってはいけない。
周囲に還元することを忘れない人は栄える。
飯縄明神様のような権現神だけは普通の天尊と違い、修験系なせいかそこは全然甘くない。
知る限りは聖天さまのような夢のような大きな御利益などはあまり期待できない。
商売が異常に儲かるなどという現象もほぼ起きない。
むしろ抜苦与楽の与楽よりも苦を抜く方、息災であることに力がある。