阿字本不生とはなにか。
本来生ぜず、本来生じなければ老病死もない。
そういう表面の動きを絶した真如の世界。
空と真如実相は違うのだ。
空はいわゆる無ではない。
事物に核がないことを言う。
事物に核がないから空と表現して妄執を絶つ。
ラッキョウの皮をむくような真理追及は無意味だと言っている。
ラッキョウの本質は皮をむいて得られない。
ラッキョウはラッキョウのそのままラッキョウだ。
ラッキョウに本質があるなら、それ以外の部分はなんなのだ?
ザックリ言えばこの考えが空。
だが、真如はちがう。
何かの本質ではない。
神性アートマンのようなものではない。
本質を求めるとするならば本質ならざるものの排除という作業が必要だ。
だが、仏教は逆だ。
ドンドン拡大し包摂していきそれをすべて俯瞰できたとき真如は現れる。
だが、宇宙は無限、頭脳や知恵を凝らしても俯瞰はできない。
できるわけがない。
理屈では瓶のなかにいる虫が瓶を俯瞰はできないのと同じことだ。
それは観じ取る以外ない。