金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ブロック外れるのはそれ以外の意味はない

心理学ワーク、お金に対するブロック、恋愛や結婚に対するブロック

進みたいけど進めない。

だからブロックを外して前に進みたい。

それは大いに結構。

でもそのブロックをはずして自由になることと希望が叶うのは別。

そこが分かっていない人もいる。

ブロック外したのにお金が儲からない。

彼氏できない。彼女できない。

何故?外れていないのかも・・・・でまたワーク巡りのあてどもない旅へ。

問題をブロックに一元化してもアクションのレベルを変えない限り現実は変わらない。

ブロックなくてもお金儲けの下手な人も縁遠い人もいるよ。違いますか?

後を絶たない破廉恥な犯罪

news.yahoo.co.jp

去年10月、札幌市北区の建物内で、10代の少女のからだを触るなどした強制わいせつの疑いで、47歳の塾講師の男が逮捕されました。

 

 

こういう犯罪が後を絶たない。

この間は養女に長年性的な暴行を加えてきた男が懲役18年の実刑となった。

殺人でもなかなか18年の懲役はないが求刑通り20年でもいいと思う。

何のための養女だったのか。嘆かわしい限りだ。

法華経を読めば冥衆降臨す

どうしても行をしたいというので出だしに法華経の全巻読誦をするように指示した弟子が、読みだしたら霊が来て・・・という。

この御経だけじゃなく宝筐印陀羅尼が必要なのではないか?と言ってくる。

さらに施餓鬼しなきゃダメなのでは?とかいってくる。

施餓鬼など今の段階でできるわけない。

 

法華経には読経すれば必ずそこに聴聞のために冥衆が降臨することになっている。

法華経に書いてある。

たとえば法華経の陀羅尼品に言うように鬼子母神の眷属は曲歯、華歯などと言う羅刹女もいて本当は歯をむいた恐ろしい鬼女の類である。

ちなみにインドではラークシャサ(羅刹女)は歯並びや形が尋常ではないという。

外にも持国天の眷属は半獣神の乾達婆だ。恐ろしい姿の彼らは御経の中で必ず持経の人を守る誓願を立てている。

 

だからこの人の言うように何か餓鬼のようなものが来たというのは正解かも知れない。

そこを認識するまではオーケーだ。だがそこまでだ。彼女たちは害意などない。

むしろ持経者を守るために降臨している。施餓鬼など無用だ。

法華経読誦は法華経読誦であってほかのなにかの修法を足さなくてはダメというような行ではない。

 

仏縁のない行者は与えた課題にとりくまずに必ず別なものをさら望んでくる。

それが改まらない人は護法神から嫌われ道場を早晩去ることとなる。

それはどこの道場でも同じだろう。

 

話は変わるが霊能者でも御経を読むと霊が集まるから、自分のとりまきには読んでは雑絶対にダメとか言う人もいる。

そのくせ自分は読んでいる。

ご自分は霊力が高いから大丈夫とでもいうのだろうか。

矛盾した話だ。

 

所定の行が終わるまでは何も授ける気はない。そもそも顕教に施餓鬼はない。

自分でやりたいようにしたいなら何故この人は私に師事しようと思うのだろう。

時々そういう人がいる。

自分の感覚で自由にやりたければ、わざわざ私の門下で行などする必要はないのに。

私も面倒くさいことをいいたいわけではない。

弟子になるということは師がしなさいということだけを素直にする。

それが師事するということなのではないだろうか。

少なくとも私はそう思ってきたが・・・

 

諦めは言葉の帝と書く

人として成熟しているか否かの決め手の一つ。

それは「人生には仕方ないことがある」ということの理解だ。

そういう人は静かな目をしている。

何でも思うままになるなどと言うのは幻想だと思う。

それじゃ諦めじゃないか!負け犬じゃないか‼というなかれ。

熟慮したうえで至る「あきらめ」は尊いことだ。

諦めには真理の意味がある。すなわち明らめるは明らかにする意味である。

 

「言葉の帝」と書いてあきらめと読む。

神も仏もない?

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撃たれて亡くなった医師の鈴木さんは地域の在宅医療を担う中心的な存在で、「患者のために自分の時間を犠牲にして熱心に取り組む責任感のある優しい先生だった。今いなくなるのは市民にとっても医師会にとっても本当に大変な損失で、言葉にならない」と話す。

 

 

無惨にも立てこもりの暴漢に殺されてしまった医師。

この先生は一にも二にも患者のこを考え仕事熱心な立派な医師だったと聞く。

実に残念なことだが立派な人間だから安泰に幸せに生きられると決まっているわけではない。

悲しいことだがそれをもって神も仏もないというならそのとおりだろう。

そういう神や仏はいないのだと思う。

だが神も仏も天から見て適当に悪人を罰したり、善人の急場に駆けつける正義のヒーローのようなものではないのだ。アクセスしなければ存在しないも同然。

そしてそのような不幸な結果においてもこのような立派な人は自己の生き方を恨みも悔やみもしないに違いないと思う。

こころより鈴木医師のご冥福をお祈りします。

内魔と外魔

鎌倉から室町にかけての禅僧・夢窓礎石はその著書、「夢中問答」で修行者の出会う「内魔」と「外魔」についてふれている。

これはいわゆる禅定の世界でいう魔境のことだけではない。

禅師は密教もしっかり修行した方であり、幅広い修行者でもある。

「教外別伝」を強調し禅を最も重んじたが現代の禅僧的なイメージではない。

 

「内魔」とはその人の因縁のことである。

修行しだすと病にかかるとか、何事かが勃発して中止せざるを得なくなるなどと言うのは内魔である。

これも困るもので因縁は目には見えないが極端な話が大病したり死ぬこともある。

これはもともと持って居る因縁で外からくるのではない。

修行して死んでは元も子もないと思うだろうが、因縁はそれで一つ切れていくので来世には修行しただけのことはあると考える。

弘法大師の十大弟子真如法親王がインドに行こうと志し、マレーでトラにかまれて死んだ話があるが、これなども三世の因縁から見れば無駄死にではないと思う。

しかし、そういう凄惨なこともないとも言いきれないので修行は誰にでも勧めるものではない。

ましてや密教を修行すればきっと幸せになれるからしたいなどと言う世福を願う動機には甚だ疑問だ。

私は幸せと思うがその幸せとは何かが違う。

 

「外魔」はいわゆる天魔のことである。心の闇などでなく実態のある実類の鬼神だ。

修行者を妨げんとする魔王 波旬とその眷属である。

世の中に魔王とか魔障いうものがあるのか?

多くの日本の仏教者はそんなものはないというだろうが私はあると思う。

私の師匠は修行がはじまればすぐに摩類はついて回ると言って、護身法、洒水に続き、三供印を伝授してくださった。

三供印が餓鬼など、ふだん物が食べられないものにお食事を上げる印真言である。

本物の魔はもっと行が進まないと出会うことはないが最初は餓鬼類が来る。

彼らは魔王の眷属ではないが、これに紛れ込んで魔も来る。

修行者に常に付き従う隙をうかがう。

魔王の眷属ではないが外には厄介なビナヤキャというものも来る。

餓鬼のように腹が膨れればいいというのではなく、人の悪煩悩にリンクしてくるので厄介である。

修行者を惑わす強力な悪魔だ。

聖天は彼らを統べる王であるがビナヤキャ自体は聖天を通さずに勝手に動くときは悪魔の類となる。

聖天は悪鬼ビナヤキャの王であるが内証は菩薩であるのであえて聖なる天というのだ。

古来、灌頂道場や大きな寺院では聖天を祀るが、これは福徳を祈るのが目的ではなくビナヤキャを調和するためである。つまり悪さをさせないためだ。

天魔は仏道修行の練達者にならないと出会わない。

夢窓漱石禅師に言わせると欲界頂に住む第六天魔王は欲界の衆生はすべて自分の所有と持っているそうだ。ゆえに欲界から解脱しようと志す者は危険人物なので妨げようとするのだそうだ。

だからかなり高等な修行者が出会う悪魔である。

 

修行者でなくても昔からこういうものに敏感な人はいる。

修行すれば彼らの障礙もなくなるだろうと思ってか修行を希望する人もあるが、これは結果的に積極的に戦いを仕掛けることになる。

やすやすと解放されると思うのは大きな間違いだ。

故に相当の菩提心がないなら得度して修行などしないほうがまだしもだろう。

 

S師の母上

今は何かにつけ公平だの平等だのといったことに異常に敏感な世の中だ。

だがそれもほどを越せばただのひがみ根性ではないかとさえ思う。

 

この前テレビで大峰山で千日行を果たしたS師の番組を拝見した。

そのときS師の母上の話がでていた。

S師が少年時代にある親切行為をしたのに相手がお礼を言わなかったという不満を母上に申し上げたら、なんと「お前は善事を行っておいて人からお礼を言われたいとは何事か」というお叱りを頂いたという。

なるほど古来偉くなる人の母上は立派な人物だというがそれは本当のようだと思った。

 

だが、この母上も逆に我が子が人に親切を受けていながらお礼を言わなかったとなればそれはそれでまたお叱りになったことだろう。

いいかえるならそこに我が子と他人との公平にこだわる考えはない。

成長する人物としての「ものの考え」こそが大事と考えるのだ。

現代ならお礼を言われたらこちらも言うべきだというし、言わなくていいならお互いに言わないでいいという感じだ。

世の親もS師の母上のようなことを我が子に言う立派な人は至って少ない。

どちらにしてもそうでないとフェアじゃない!とかすぐに考えてしまうだろう。

中には子供の扱いがフェアじゃないと思うとほんのささいなことでもすぐに文句を言いに行く親もいる。

集合写真の真ん中にうちの子供がいないなどと言う苦情や演劇は全員主役などと言うバカげた児童教育は私的には噴飯ものだ。

 

そういう考えでは本当の人物はできないのだはないだろうか。

そしてこの考えでは修行もまたできないと知るべきだ。

人はどうあれ己は己のあり方を考えることこそが成長し偉大な人物を作る考えだ。