金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

福猫、来年からは

福猫さんは長年行ったり来たりしているとどうしても少しずつ傷んできます。

そんな福猫さんもそろそろ見かけます。

元来が頻繁に送ったりもどしたりするような性格のものではないので無理からぬことと思います。

自然の劣化もありますから、配送の方に多くの場合、あからさまな破損事故以外は罪はありません。

修理はご自分でしていただくほか職人さんに頼むと塗るだけのことでも数千円からかかるでしょう。壊れた部分修復ではおそらくもっとかかります。

 

でもそんな猫さんでもお取替えして新しい猫さんを求めるというのも「いやだ」というかたばかり。

古くても傷ついてもご自分の福猫さんを大事にしてくださり、金翅鳥院としましても本当にありがたい気持ちでいっぱいです。

 

そこで来年からは福猫さんを送らなくて済むように年々福猫さんに「敷いていただくお札」を考えています。

 

勿論送りたい方は従来通り送ってくだされば結構です。

聖天信仰46年続けて思うこと

21歳から聖天信仰はじめてあしかけ46年になります。

今振り返って思うことは

 

聖天さまとの出会いは宿世の縁と思い大事にすべきこと。

嵐の日もある。晴れの日もある。運気は天気と同じ。聖天様を信仰しても不自由、難儀は世の常と思うこと。

聖天信者は天尊とともに人生を最後まで歩む心で行くこと。

合掌の心を大切にすべきこと。

本地である観音の信仰をベースにすべきこと。

だと思います。

 

人生は山も有り川もある。

だからいいことばかりない。

そんな中にも信仰を捨てず歩いていくことから人生を見る目もだんだん培われます。

聖天様は倶生神、あなたと共に生きてゆく。

聖天様を利用しようと思う人は聖天信者ではない。

聖天尊の背後にはマンダラ世界がある。みなつながっている。

願いをかなえたいばかりにあちらの神様こちらの神様と思うのは愚かなこと

その心で何も得られるものはないと思う。

 

 

物差し

初対面でご自分の霊感でのお話を滔滔とする方がいますが、それはそれで結構です。

だたし、それはその方でないとわかりませんから私は共有できません。

否定できませんが肯定もできません。

「ああ、そうですか」というほかはない。

それが正直な気持ちです。

 

ですが講員になることはお断りします。

ましてや修行者としての入門はいうまでもないことです。

 

当院で仏道を学ぶのにその態度ではそれは多分に邪魔にしかならないからです。

仏道というのはまず自分が当たり前と思っていることを顧みることから始まるからです。

わかり切ったことですらそうですので、他の人にわからないことを是として振りかざす人には到底無理です。

誤解なきように断っておきますが霊感があることが悪いというのではありません。

自分の霊感をどうとらえるかです。

優れた霊感はあっても人に悟られまいとするような慎ましい人であれば別ですが・・・。

私はそれを人をお断りする大事な一つの物差しとしています。

 

自分は霊感が強いから以心伝心で私ならわかってくれる!と思うのは大変な御門違いです。霊感は主観の世界なのです。

霊感自慢な方はどうぞおよそに当たってください。

うちはあなたの来るべきところではありません。がっかりするような結果しかありませんから。

お気楽 極楽   漢方でなんとかしたい!

matsuedo.hatenablog.com

 

松江先生のお気持ちはよくわかります。

多分人と話することが下手なのだと思うけど、「自分は何々というもので、現在何歳でこれこれこういう病でこういう期間、悩んでいますがご相談出来ますか?」という順序が守れない。

 

それとこういう人は短絡的に自分でこうすれば解決すると決めている。専門家でもないのにね。

うちにもきます。

いきなり開口一番「狐がついて大変です!」「会社の後輩に呪われているんです。」

こういうのは「胃癌だと思うのですが薬あります?」と医師の診断もないのに言うのと変わらない。

それで「どうしてそう思うのか?」と具体的に聞いても判然としない。

困ったものです。

大体真夜中とか非常識な時間に来る。時間で音もならない仕組みにしてあるのですが朝みて夜中に着信があった知らないナンバーは皆、通話拒否設定にしてます。

酷いのになると「憑き物がついているので払い方を教えてくれ、自分でやるから。」と言う人もいる。

あんたなんかにできるようなものはひとつも知りませんよ。自分で勝手にいいようにやってみなさいな。

そう言う人はそんなもの下手に教えてうまくいかなかったらこちらが悪いと言うに決まっている。

知らんがな。

 

行と病

人によっては行をすると色々と病が出ることもある。

これも業の洗濯だと思う。

そうやって病になってこそ病人の身も推し量れるというものだろう。

それはのちの慈悲を養うことでもある。

そうやって行を続けているうちに正しく精進すればだんだんと病に縁の薄い体になっていく。

昔は私も今に比べると断然弱かった。

辛いし、時間はかかるがそれも大事な修行だ。

当院の徒弟もすべて頑健な人ばかりではない。

それも修行だ。

だからこそ行はなるべく若いうちにすべきなのだ。

いくら業の洗い出しでも歳行って病になったらどうもならないでしょう。

一度勉強すべき

news.yahoo.co.jp

先の統一教会との癒着に派閥の裏金。どれを見ても勝てる要素がないですね。

政治家の在り方を一度勉強するんですね。

野党さんは口々に「国民の怒りが頂点に達している」とか言うけど、怒るのはまだ期待しているうちです。開いた口が塞がらない。