金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

金翅鳥院講員制度って?

ときどき聞かれるので申し上げます。

講員になるのとならないではないが違う?

別に講員にならなきゃダメとかは一切ない。そういうことは言っていません。

ご利益ももちろん特に変わらない。それは受け取る側の真剣さや信仰の問題。

 

一言で言うなら、「信者さんと言える人」になるかならないかです。

ただお参りに来たり、祈願頼んだりでだけで「信者」といったりいわれたりのはお互いに違和感があるだろうと思う。

なぜ講があるのか?

そのむかし、私の師匠の寺で、日ごろ何かというと雄d名に駆け込み。難しい祈祷を頼むのに感謝祭や大祭のお札となるとそれは頼んでいないからいりませんと返してくる人がいて亡き師匠はあきれていた。

一々それはどんなものか?と相手にいうのも嫌だし。そういうことから「なるほど、ハッキリ線引きしてメリハリつけたいな・・・」と私は思いました。

私は日ごろの祈祷は頼んでいなくても講員でありながら感謝祭や大祭を付き合わない人はもう信仰をやめてもらおうと考えました。

参拝だけなら色々な方が見えます。

参拝者のなかには全く別な宗教を信じてるけど…という方もいましょう。

なのでそういうい一般の御参拝やとそうではない「講員」という区切りをつけています。

 

講員さんには外部の人には提供しない様々な祈祷がある。

聖天供や月例祈願など、臨時の祈願にも相談に応じる。

場合によっては深夜でも祈願する。メールや電話応対でも相談する。

時にはきびしいこともいう、遠慮しません。そういう指摘もする。

反面、修行もさせるし、弟子にもする。

信者ですらないものなんか弟子にできません。当たり前だね。

だから軽くお近づきだの。おつきあいで講員になどというのはかえって大きな迷惑なのです。

まっぴらごめん!信仰はつきあいでするもんじゃない。

講員になりたいけどどのくらいの期間やってたら?という質問した人も来ました。

これも論外。信仰に期間などない。そういう人はお断り。

こちらも私ではなく「本尊の信者」なのでその気で永くお世話しますから、ある意味お客さん扱いはしません。信者ですから客じゃない。

 

 

辞めるのは一切止めない。辞めたい。何も聞きません。どうぞで終わり。

かわりに辞めたら再入講もお断わり。

 

そんなところですがこう言う接し方、誰にでもしてたら大変なんです。

「信者です」とハッキリいう人にはこちらも責任がそれだけ分あると認識してます。

そういう違いです。だから覚悟のない人は邪魔だから来ないでほしい。

家族に隠れてやりたいという人もダメです。隠れなきゃいけないものなどないからね。

逆に家族もはいれも言わない。

だから軽い気持ちの人には入講は「あなたはむかないから考え直すよう」に言ってさえいます。

 

豊鶴院白石講はそういうのじゃないから誰でも安心してどうぞ。(笑)

新発見じゃないでしょ

 

news.yahoo.co.jp

新発見じゃないでしょ。それをいうなら新種を学会が認定したというべきです。

でって先住民族の皆さんは名前までつけて昔から知っているわけだもの。

地元が認識しているが文明社会に知られていないだけ。

これって南の島のキングコングや岩戸島のゴジラの初作の時代と変わらない頭だ。

くだらぬことでキャアキャア差別だなんだという一方でこういうのを差別と誰もいわないのは噴飯ものだ。

下の海洋生物は新発見でしょ。

www.msn.com

 

 

ばかばかしいにもほどがある

 

韓国が愛知のアジア大会で秀吉の扮装の出演を非難。

元寇の時、攻めてきたのは海に不慣れな元の兵でなく高麗の兵だ。

だが、そんなものを今時の中国や韓国に謝れというのは噴飯ものだろう。

同じく、秀吉の朝鮮出兵、今の日本にどう謝れというのだ。

ばかばかしいにもほどがある。秀吉のことなど謝罪も反省も必要ゼロ

葬儀から祈願へ

最近祈願をしたいというお寺様が多い。

葬儀じゃ食えなくなってきた。

葬儀しても戒名は要らないとかいう檀家も多いし、第一 「墓じまい」がすごいスピードだ。

檀家寺は檀家」1000件もあれば肉山と言えるが、少なければ時間ばかり取られる。

100件なくても人がなくなるに備えて外出もはばからなくてはならない。

こうなると以前とは全く逆に葬儀、法事より祈祷に注目するお寺も出てくる。

もちろん葬儀法事もしての話だが。

むべなるかなだ。

宗派にもよるが元来寺は祈願の場だ。

祈願のない宗教などない。

葬儀祈祷の兼業寺院がふつうになっていくことだろう。

祈祷というと私はそんな特殊な能力はないのでとしり込みする僧侶も多いが

特殊能力などいらない、

僧侶の祈願は本尊へのメッセンジャーでいいのだと思っている。

よく伝える、そのために誠心誠意で祈る。それに尽きる。

祈祷自体は念力も霊感も無用だ。

ただ仏に向かい合えればよい。それだけだ。

いかに神通あろうとも祈願をするのには性格的に不正直とか狡いというのは一番向かない悪しき性格だ。

それでは仏に向かい合えないだろう。

 

 

ダキニ天から毘沙門天へ

今年前半は午年ということもあって やたら、ダキニ天、第一 ダキニ天のお寺に「寄る辺なき身」を寄せさせて頂いている現実がある。

微力ながら白石吒枳尼眞天さまに皆様の御祈願をさせて頂いてきました。

後を頼む方にもダキニ天の祈願法をお伝えした。

そして昨日は千手院様でダキニ天伝法をいたしました。

まさに毘沙門天さまとダキニ天様が交差する一日でした。

 

そのダキニ天は刀八毘沙門天に化身すると経説にある。

今日から刀八香合仏開眼供養七座を開白し始めています。

ここからは毘沙門天のステージですね。