金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

「妙見菩薩供」伝授

五月四日㈯13時からゴールデンウイークの長期休暇に付き「妙見菩薩供」を伝法を企画いたします。

資格は「密教コース」で護摩加行までの修了者のみです。

「不動尊花水供」が未終了の方も受けられます。

今回は祈願をする上では全員に必要性のある法であると考えての集団伝法です。

なお、日時が合わないので別に伝授を希望というのには応じません。

次の機会までお待ちください。

当日不都合な方は今回は縁がないものとお考え下さい。

一度受けた方の再履修も応じます。

資料の作成準備があるので希望者は早めに申し込んでください。

 

妙見菩薩は事相では星宿部に入ります。広い意味では天部ですが、方位や星回りなど祈祷上で欠くうべからざる要素が多いので伝授することに致します。

方位や年回りというものの正体は仏教から申せば我々の業です。

同じ良い年回りや悪い方位へ行くことでも人により吉凶の差が大きくあるのはそのためです。ただそこには法則性があります。

わが師からも「行者はどうしたって妙見さんお世話になるのだ、だからよくよく拝まないと」と常々言われました。

一応、お申し込みは4月2日を締め切りにします。

 

今回はレベルの上から統一したいので、所定のカリキュラムを終えた当院の門下生のみです。

外部の方は謹んでお断りいたします。

期待しない生き方は喜び多く、苦しみ少ない。

私はものごとにも人様にもあまり期待というのはしない。

そういう癖があります。

期待するとガッカリしますが期待していないのでダメでも、そうかあ…程度であまりガッカリしないですね。

それってつまらない?

まあ、でも苦楽中道ってのはそういうことかな・・・と勝手に思っている。

確かにそうですね。

つまらないかもしれませんが、そもそも大喜びと大泣きは一対のものです。

大泣きも大喜びもしたい人は自由です。

でもそのたびに情動が激しく動く。

怒り頂点に達してトンでもない行動に出ることだってありうる。

それに逆に所詮ダメでも・・・と思っているので意外のことには一々喜ぶことも多いんです。

喜びごとは全部皆望外の喜びごとですもの。

決して暗くはない生き方だと思っています。

私は怒りやすく、愚痴多く、愚かな自分を心底よく知っているのでそういう過ちからなるべく離れていたいというだけのことです。

別に気が利いたことを申し上げてはおりません。

餓鬼も食わない飯とは?

精霊供養6日目 あと一日で結願ですが、御飯に一向にカビが生えない。

普通に餓鬼が集まればカビでいたるところ真っ青になります。

ところがほとんど初日に同じで真っ白です。

連日雨でしたので空気が乾燥しているなどとは思えない。

失敗したかな?どうしてかな・・・

一つには朝、同時に朝座で弟子が内陣で金剛部の修法をしているので餓鬼が怖がっているのもあるとは思う。外陣ですけどね。

あとひとつ!思い当たるのはこのご飯です。

実はレンジでチン!するタイプのごはんです。

おそらく防腐剤だの着色料、防カビ剤なんだの添加物がテンコ盛りなのでしょうね。

でなきゃ長期保存に耐えられるわけない。

 

まあ、初日はかなり声が出しにくかったので餓鬼は来るには来ていると思うのだけど・・・

 

それにしても食品会社さんの営業を妨害する気はないけどこれはもう絶対食べたくないですね~。

非常時ならともかく、ほぼ毎日こんなの食べていていいわけない。

餓鬼も食わない飯だ。「こんなもの食えるかあ!」といわれそう。

私は色々な事例から最近のうつ病や精神疾患、若年性認知症、大腸癌の多発の有力な原因は添加物にあると思うようになりました。

もともとは私もそんなの笑ってほとんど全く気にしなかったんですが…でもホントはそうではないのだと最近は思う。

 

皆さんも気にするようお勧めします。私と餓鬼からの御忠告です。

とにかく明日は結願しひとまず終了します。

 

 

 

 

伏見稲荷に外国人雲集  善龍庵さんのブログ

oomorigijyou.hatenablog.com

羽田談

私も見たことあるが眼の青いお方が手を合わせて一心に拝む姿は微笑ましい。

単に日本流を楽しむ心からなのか・・・

あるいは彼らの中では創造主とはまた別な位置で日本の神や仏は存在しているのかもしれない。

中国人はあまり違和感ないかもしれないですね。

妄念の凡夫にてあるべき

私が高校生のころ「超人」になるための密教を宣伝していた教団があった。

密教という言葉も具体的にはその時知った。

最初何回か通ううち、しばらくしてここは違う。金儲けの教団と察して辞めた。

 

そこの千日の行をやめると「因縁返し」でえらい目に合うというので本当かどうか最後に、その礼拝対象に頂いた宝塔を打ち壊してみたがどうということもなかった。

恥ずかしき若気の至りだ。

それには当時この教団を批判していた真言宗の大徳のおかげが大きい。

私は直にお願いしてお話を伺えた。忙しい中よくもこんなワッパの相手をしてくださった。

天台には「横川法語」(よかわほうご)というものがある、念仏信仰の走りである横川の源信僧都の作だ。

少し長いが引用しておくと

 

一切いつさいしゆじやう三惡道さんあくだうをのがれて人間にんげんうまるることおほいなるよろこびなり。

はいやしくとも畜生ちくしやうにおとらんや。いへまづしくとも餓鬼がきにはまさるべし。

こころおもふことかなはずとも、ごくくるしみにはくらぶべからず。

みうきはいとふたよりなり。ひとかずならぬのいやしきはだいをねがふしるべなり。

このゆゑに人間にんげんうまるることをよろこぶべし。

信心しんじんあさくともほんぐわんふかきがゆゑにたのめばかならわう生すじやう

念佛ねんぶつものうけれどもとなふればさだめて來迎らいがうにあづかる。

どく莫大ばくだいなり。

このゆゑにほんぐわんにあふことをよろこぶべし。

また妄念まうねんはもとよりぼんたいなり、妄念まうねんほかべつこころもなきなり。

臨終りんじうのときまでは一向いつかう妄念まうねんぼんにてあるべきぞとこころえ、念佛ねんぶつすれば、來迎らいがうにあづかりて蓮臺れんだいにのるときこそ妄念まうねんをひるがへしてさとりのこころとはなれ、妄念まうねんうちよりまをいだしたる念佛ねんぶつにごりにまぬはちすごとくにして、けつぢやうわうじやううたがひあるべからず。

妄念まうねんをいとはずして信心しんじんのあさきをなげき、こころざしをふかくしてつねみやうがうとなふべし。

 

この「臨終のときまでは一向に妄念の凡夫にてあるべき」というのは極めて大事だと私は思う。

念仏だろうが法華経だろうが密教だろうがこれは同じことだと思う。

念仏のところを題目だろうが真言だろうが禅定だろうが同じだと思う。

 

さればこそ今日も「妄念の凡夫」を生きよう。

ことさらに「妄念の凡夫」と思いその自覚をもって生きるのだ。

 

妄念の凡夫なればこそ智者の真似は致すまじ。

妄念の凡夫なればこそ妄念の上にもさらなる貪瞋痴は重ねまじ。

妄念の凡夫に上も下もなし。上だからと恐れず、下だからと見下さずだ。

たとえ、いかなる天賦の才あれど、その実は妄念の凡夫たるはなんら変わりなし。

妄念こそ我。我即妄念。

妄念の命だ。

それ以外の私などないのだ。

人は人以外のものにはなれない。

鳥や動物を見れば明白だ。