反省は常に必要だ。
易経にも「君子は終日、乾乾し、夕べに惕若たり。厲けれども咎なし」とある。
「終日乾乾」とは一日よく動き働くこと。
乾は陽の極みで動くことを言う。
「夕べに惕若たり。」
夕べには一日を振り返りて反省し総括する。
この反省し総括するというのは大事だが劣等感や罪悪感にうちのめされてとらわれてしまってはダメだ。
そういう人はえてして他人の過ちも徹底して許さない。
自分の過ちも許さないのだからまして人の過ちを許すわけがない。
だが、どういう過ちもそこにとらわれ、罪悪感や自責の念に沈むだけではなにも解決しない。
それはまことの反省ではないと思われる。
真に実のある反省というものが出来たら「あやうけれども咎なし」なのだろう。
こうして自分を責め続け憂鬱な気持ちで過ごしているのだから「罰は受けている」という一種の言い訳だ。時間は止まったままになる。
何も生まない。
間違っているとわかればただす。それだけだ。
反省したら翌日はそれもただすべく、また太陽が登れば終日乾乾しなくてはいけないだろう。