「われとは何か?」
16,7世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは「われ思うがゆえにわれあり」ととなえた。
仏教的にもう少し詰めて言えば「思うが故」は無用だ。「あり」も無用だ。
この「われ」の想いこそ、そのまま「われ」の正体にほかならないのだ。
ほかに「われ」はない。
だがもとより我なくば我の主題を認識し論じることもありえない。
この我とは相(すがた)であり現象だ。
ものではない。
現れだ。故に金剛般若経に「無我相」という。
無も我も相もおなじものの違う切り口だ。
我ありと語る心の我なくば
我なしと語る心の我もまたなし