金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

一切唯心造

若人欲了知 三世一切仏

応観法界性 一切唯心造

三世の諸仏もみなわが心の作るところという。

これは無神論者の神も仏も所詮は人間の空想の産物という意味とは全く違う。

仏をつくる心とは常の心ではない。

仏の心のみが仏を作るのだ。

妙法蓮華経方便品に「唯だ仏と仏のみいまし能く諸法の実相を究尽したもう」というのがまさしくそれだ。

難儀には必ず学びがある。

難儀には必ず学びがある。

難儀がなければ学びはない。

難儀にあったらそれをよくよく研究すべきだ。

 

なら学びなどなくて難儀もない方がよいと思うかもしれない。

多くの人がもそう思うだろう。

 

だが世の中はそういうふうになってはいない。

難儀は世の常。

難儀の世の中だ。

だが学びをえないと何度でも同じ難儀にあう。

 

学ぶことによって難儀は減る。

難儀から離れたくば学ぶことだ。

敵と戦わずして強くはならない。

だが敵から学び、強くなれば敵は減る。

戦いから学ばないものは早晩倒される。

同じことだ。

だから常に忘れてならないのは学びと工夫だ。

祈りと謙虚

祈りの心のあるところ人は謙虚になる。

祈りの心のないところに傲慢が生まれる。

何かの宗教に所属していても祈りのない人はある。

なにも特に信仰していなくても祈りのある人にはある。

祈りのない人をわたしは信じない。

合掌のなかにこそ

悲しい時も辛い時、そして腹立たしい時も・・・そんな時はただ合掌する。

合掌の内には仏がある。

仏様を見失いそうになったら合掌する。

偽りの感謝など口にしなくていい、辛いなら辛いまま、悲しいなら悲しいまま合掌しよう。

きれいごとなどいらぬ。罵りたい気持ちそのままに合掌してみる。

怒りや悲しみの中にも濁りに染まぬ蓮のように仏はおわします。合掌は仏。

南無仏と唱え 御仏を思う時 合掌は身密の根幹。

自然と「やすらぎ」は訪れます。

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望まないことの楽 かなわないことの楽

丹精込めたことや気に言っているものや期待していることがダメになったりすると・・・ガッカリする。

それは当然だがよくよく自分の気持ちを観察すると失望と同時に変な話だが楽にもなる。

 

もう期待したり望んだりしないですむことは一面とても楽なことなのだと感じる。

望むことがなにもなくなるということも一つの楽であることは確かだ。

仏教の三昧の一つに無願三昧がある。もう何も望まないでいい楽。

何一つ期待することをしないでいい楽。

逆に言えば望みや欲望が沢山あったりすることはなにかと大変だ。

物事をあきらめずにあくまで求めつづけることは大きな苦と言えよう。

あきらめるとはその是非を明らかにすることでもある。

そういうことかもしれない。