羽田談
無は有の否定であり、無だけでは存在しえない。
無の前提はすなわち有である。
たとえば河童は生物学的にいるのか?という問いがそこにあって初めて「いない」といえる。
河童という概念がないのに河童の否定はできない。
したがって有がなければ無もないのだ。
無だけでは存在し得ない。
これに対して有は有のみにてもまだ存在しうる。
あそこにゾウがいる。
お巡りさんがいるなどである。
無論,概念の存在が先になくてはこれも無理だ。
最終的にはヴィトゲンシュタインのようにすべては概念に起因し、その微妙な違いによりさまざまな論議が生まれる。
それだけのことなのだろう。
仏教はそうした概念による決着を真実の決着とは決して見ないのである。
概念など同じものを右に移したり左に移したりひっくり返しているだけである。
なにも変わらない。
したがってそこに「さとり」という変容は起きえない。
こうした概念による理解を悟りと勘違いするのは魔境の一種だ。
それは本人の人格に毛ほどの変化も起きないからすぐにわかる。