共業(ぐうごう)というのがある、個人でなく地域や集団や一族、国などにかかわる業のこと。

自分がいくら修行しても共業に巻き込まれてしまうのは理不尽?
無論修行によって巻き込まれ方は様々。軽重はあるだが業報自体は受ける。
戦争でも戦死する人、生き延びる人、疫病でも自然災害でも同じだ。
一見理不尽だが、ここに大乗仏教の考え方が生きている。
それは個我ということのみ考えると理不尽に感じるようになるのだ。
すでに仏教でいうように無我なのである。法界より孤立した我はない。
悟るろうが悟らまいがそれが法界だ。法界自体は愚でも賢でも同じだ。
他者は関係なくないのだ。もっと突き詰めれば個我がないなら他者もない。
個の解脱のみ追及するとするならば、究極それは諸法無我の理解がないからだろう。
大乗は理解するほどにこの共業は大事だ。個の解脱はない。
ゆえに釈尊は往来娑婆八千度。
あるいは理趣経に言うように「菩薩勝恵者はいまし涅槃に赴かず」となるのであろう。