われ思うゆえにわれありとデカルトは言ったという。
仏教で無我と思わっても「私はある」というこの思いは実感だろう。
実はこの「私」とはまるきりの迷いの所産ではない。
私たちは法界と不可分なのだ。
ゆえに「私」の思いがある。
ただ、その奥にあるのは小我ではなく真如実相だ。常楽我浄の存在。
「私」を頭から小我ととらえ排除しようとするのが迷いだ。
排除すべきものは存在しない。
「私」を通してしかそこには至れない。
無我の観点からやみくもに「私」を否定しようとするものは理論倒れの愚かなまちがいを犯している。
それもまた戯論でしかなかろう。
無我相の境においては捨てるべきものなど何もない。
もとよりかくのごとしなれば。