仏教では「無我」というが、禅家では「本来の面目」とか「主人公」という。
どう違うのか?
禅家でも好んで読む金剛経に言うように「無我相」であることは同じでしょう。
無我相なら「本来の面目」はどこに?
だって本来「無我」なのでしょう?
そう言う疑問は当然あるでしょうけど、私が思うには無我相とは一円相ということ。
禅家のお寺でよく掛け軸に〇をひとつというかたちで表現されているあれです。
分けられない、私というものは実は周囲が作っている。無論いわゆる私も作っているけどね。
慈悲もそこから出る。
全部霞か霧のような無我相観から慈悲など出ない。
そう言う考え方したら般若心経なんか有難くも変とつもない。
個の自分は突き詰めればなりえない。でも全体も自分がなければ存在しない。
皆等価値。法華経でいうなら「諸法実相」
「本来の面目」とはそのレベルの自分。
それに近づく方法はどうするのが良いか?
怒っても 悲しんでも いささかも変わらない自分を奥に見据える。
人間だから泣きもする。笑いもする、怒りもします。
だがその怒る自分、悲しむ自分とどこまでもひとつにならないこと。
だから怒っても悲しんでもいいがそれでもいささかも損減しない自分をみすえる。
そんなのわかんない?
怒りや悲しみの折、想定するだけでいいんです。
私はそうしているだけです。