仏道修行に肝心なものが欠けている人はいかに精進し頑張っても無駄だ。
努力は人一倍だが、人間は欲が先行すれば難行苦行もなんのその。
そういうものだ。
ものすごーく頑張っている人でも首にした人はいる。逆に怠けているので首にしたものはひとりもいない。
やりたくないならやらなくても一向にかまわないからだ。
講習会も山修行もいかないなら行かないで構わない。
得度は冥土の土産でいいだろう。
ただ間違った方向へ進むものだけはダメだ。
そこは絶対ブレてはいけないところ。
抑々自分の修行なのだから一生懸命やるのは自分の勝手。やらないのも勝手。
昔の弟子連中は厳しく叱責して尻をたたくようにして修行させたものだが今そんな気はさらさらない。
今の私はそう思っている。
だからこんなに頑張っているのに!と言っても、先に進ませられないものは進ませられない。
今の十倍頑張っても。100倍頑張っても同じことだ。
なにがかけているかは口にしてしまえば簡単だ。
やめて頂いた人で「独部法100万辺やったらまた復帰させて下さい!」と言ってきた人がいるが、わかってないね。そこじゃない。
だが、肝心な点は言えば言うで「わかりました‼そうですよね~!」とか「そうじゃないかと思ってました。」くらいは誰でもいうだろうし、そんなのは聞くだけで鼻で笑うようなものだ。
勿論こちらもうんうんとうなずくだけで決してわらいはしませんけどね。
腹で「よう言うわ。」と思うのみ。
私も相当タヌキですから。
このタヌキが今まで生きてきて「分かった」とか、「こう思う」とか言う人の話は聞き飽きた。
なにもわかっちゃいうないさ(笑)
やっていることだけが事実だ。タヌキが認めるのそれだけだ。
人の言うことは言葉に過ぎない。それ以上のものではない。
だが、弟子を信じたい気は師なら誰でもあると思う。
弟子だけでなく人は年を取るほどに淋しいから話し相手を求めて気を許す人も多い。
だから可なりの人物でも晩年にただの口達者なだけの人間を親身になってくれる人と勘違いして晩節を汚す例は少なくない。
自分で自分をごまかしていしまう。
そういう最後はお粗末だ。
だがそこは人間もとより1人と思えばなにも淋しくなどない。
そんなものはいないのだ。
そんな自分が世間さま皆さまのお情けを受けていると認識するだけで十分にありがたく心は満たされる。
それ以上求めるのは貪りというものだろう。