「釈尊は霊を否定してる」などと一知半解の日とは言うが、八正道の「正見」の中にはそうした霊的存在を認めることが入っている。
もともと霊魂否定は死後について尋ねた弟子に「そのようなことは知らない」といわれたことからはじまる。
しかしながらなぜそのようなことをいわれたのか?
目連尊者の御母堂が餓鬼の世界に堕していることによって救済手段にお盆が始まったと言われている。そもそも六道輪廻からの解脱を提唱しているのだからそんなことは当たり前なのだ。
今どきの坊さんは死後について口を紡ぐ。
葬式して引導渡しても自信をもってしていないのだろう。
個人的はなにもわからなくても仏教の説く世界を伝えるのが坊主だ。
かと思えばこの間亡くなられたさる高僧のように「死後は何もない 死んだらおしまい」と言い切る。
こういう人はいくら有名、有能でも私は僧侶のうちには数えない。
僧形でも世俗のお方だ。
思うに釈尊在世のころの阿羅漢たちは五神通を具備していてそのようなことは自ら知ることができたこと。そのレベルなら霊感にとらわれることはないだろう。
つまり尋ねた人は未熟だったのだ。そんなことお前が興味を持つことではないということが釈尊の真意だと思う。
実際に霊の世界や霊視、霊聴に初心の行者がとらわれることでそれにこだわり修行が進まなくなることはよくある。
そういう霊の世界もまた真実世界ではない。この世と同じマーヤー(幻影)なのだ。
たかだか霊が感じられるというだけで真実世界に近いような錯覚をしている人は多い。
それでそれをよすがに「仏道修行したい」などといってくるが、そういう人はおおむね慎みなく自分の霊感覚で周囲にものを言い、自己の境涯に安住して一向に修行が進まぬばかりか、周囲には甚大な害がある。
まずそれを是正することから始めねば到底修行者ではない。
だから釈尊の「私は知らない」と言って相手しないのは極めて正しい態度だ。
だがそういう人は実に少ない。自己の霊感の延長線上に修行を置いている。
何かといえば見える聞こえるを喋喋としゃべり、あまつさえ上座の人間にアドヴァイスまでする。
そううわけだから自分で霊能者などと胸張って言ってくる人の入門はおろか、入講すらも断ることが多いのだ。