金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

十非心 その3 刀途道

「三つには その心念々に名の四遠八万に聞え、称揚欽詠せらるるを得んと欲し、内に実徳無うして虚しく腎聖に比べ、下品の十悪を起すこと魔けん堤の如きは、此れ鬼心を発して刀途道を行ずるなり。」

 

摩犍提とはマーガンディアという異教の修行者です。

お話には数本あります。

「発句経」では釈尊に自分の娘を嫁がせたいと現れましたが断られました。釈尊の説法を聞いて釈尊に随い夫婦で出家し余流果(あと数回転生して解脱すること)を得たといいます。

「摩犍提経」の摩犍提は釈尊を「感覚は存在しない」と説くものと勘違いして論難しようと考えていたのですが、此れも仏陀の弟子となって阿羅漢になりました。

下品の十悪というほど悪人のイメージではないのですが、高名を求めて釈尊に娘を嫁がせようとしたあたりを言うのでしょうか。

もっとも後日談では摩犍提の娘も摩犍提という名で知られ、この娘の摩犍提女は悪女で王の後宮に入りき妃を毒殺したといいます。

ここにいう摩犍提はそういう色々なイメージが混ざっているのかもしれません。

 

ここで問題になるのは修行者でありながら中身もないのに、世間的に有名になって偉く思われたい、讃えられたいという心です。

先の提婆達多の心は衆をいざないというリーダー志向でしたが、こちらは有名になりたい。別に支持者や弟子が増えることを願うわけではないが有名になって世間の尊敬や財宝などの貢物をえたいのでしょう。

提婆達多の心は絶対権力に執着する悪い為政者のようなものですが、摩犍提は名誉欲のとりこになった修行者の姿です。

それが証拠に宗教的見解がまるで異なる釈尊にあやかって、ただ有名になりたいだけで娘を伴い姻戚関係を迫ります。

大切なのは教えより世間の評価なのです。

 

要するに承認欲求の塊と言えましょう。

これは鬼神の心で刀途道だといいます。

鬼神は神通広大で善良なものもいますが極めて尊大で高慢だといいます。

だから褒め讃えられたり、お供物を山盛りにされたりすれば調子に乗ります。

聖天信仰における毘那夜伽はこういう存在です。

下級の眷属である動物霊などもそうです。

だからそういう霊は○○明神として祀ってくれなどとお告げをしますが、神として祀るべきレベルの内容があるとはかぎりません。

まあ、便法としてそういう存在も神号をつけて祟りなどをなだめる方法もないわけではないですが。

尊天はじめ上界の護法天はそういう低レベルのことのみでは、心に誠が無い以上は感応しません。