仏教では一切衆生ということを言います。
誰でもという意味。人間に限らない。動物も神々も鬼神もです。
「四弘誓願」にも衆生無辺誓願度
といいます。
四弘誓願は仏様自ら誓っている「誓」でもあり、仏道修行者が仏様に誓って自らか行ずるものでもあります。
ところが安楽行品には親しみ近づいてはいけない人々が列挙されている。
国王・王子・大臣・官長などの権力者や異教の教師、動物の殺生を生業とするもの、
売春する人、未亡人などなどが挙げられています。
これらの人々に自ら好んでなれなれしく近づかないことが挙げられています。
ただし、これらの人々が仏法の教えを求めれば必要な教えを施すのは当然です。
ただ何が必要かは考える必要があります。
安楽行品はカースト制度のあったインドに相応して職業で区分けしています。
そこはもちろんそのままとらえるのではなく現代的に考えるべき部分と思いますが、ようするに修行者としては慣れ親しむべきでない人たちは存在するということです。
一切衆生の考えと矛盾するだろうと思うかもしれませんが・・・
極端な話をすればトラも一切衆生です。
でもトラに慣れ慣れしく近づくことは危険です。
同じように人間でもこの人は近づいてはいけない。
そういう人はいます。
慈悲とこの安楽行品の言う「親近するなかれ」は別なことです。
トラは猛獣です。
トラには馴れ馴れしく近づけませんが、でもトラの保護のことは考えられるし、彼らに必要なことも計画できます。
人間にも暴力的な人や感情を制御できない人、思い込み激しく執着の激しい人。
他者への思いやりの著しく欠如している人。
色々います。
一切衆生と言ってもそこに距離はあるのです。
釈尊の涅槃には人も動物も神も鬼神も集まりました。
釈尊はそれだけ影響を受けない偉大で特別な人だったということでしょう。
ですが誰でもそうではありません。
慈悲を失わずに距離を取る道を法華経は示しています。
「だれでも受け入れなきゃオカシイ 差別じゃないか!」はないのです。
ただし無害な人を好悪で忌避するのは差別というべきでしょう。