見たことはないがおととし当たり化「君の膵臓が食べたい」というけったいなタイトルの映画があった。
どんな映画だか知らないが・・・
昨日の晩、荼枳尼天に関するある論文を拝見していたら実に面白いことが書いてあった。
天台の「晨狐菩薩上口訣」には
法華経の宝塔品と引き合わせ、宝塔を一切衆生、釈迦を晨狐王(荼枳尼天)、多宝如来はその食するところの一切衆生の遺骸とし、能依所依一体の妙理をあらわすという。
これは修験でいう「能食所食所依一体」(食べるものも食べられるものも一如)の深旨と全く同じである。
修験道では食べるということをとても深秘にあつかう。
「食べる」とはすなわち生死一如の至極である。
古来天台には臨終に荼吉尼天に(人黄)肝(心臓ともいう)を食べてもらってこそ罪悪深重の人間は往生できるという考えもある。
考えてみればほかの生き物を圧迫し続けた人間が最後に狐(動物の代表)に肝を与えておかえしをするわけだ。
これはひいては天皇が狐精である荼吉尼天を拝む即位灌頂と同じ思想がそこにある。
かくして天と地、人中の最上位と最下位の野にはう獣は一如となり循環する。
天地気を通じるを易経に地天泰という。大変吉祥の卦とする。
これを思うに日本の皇室には西洋の王権のような王権神授的な三角形のヒエラルキーでは到底語れない深いものが流れている。
いうなれば日本は円なのだ。
私も死ぬときには肝なり心臓なりを荼枳尼天にもらっていただきたいと願っている。
ちなみに溪嵐拾葉集にもあるが、天台では顕密両教にわたって荼吉尼天は存在し、陀羅尼品に名前の見える十羅刹女のうち「奪一切衆生精気」が顕教の荼枳尼天ということになっている。
したがって顕教で荼吉尼天を祭るなら法華経の「陀羅尼品」を読んでも大いにご嘉納があるだろう。