須菩提、我が阿耨多羅三藐三菩提に於いて乃至少法も得べきものあることなき、これを阿耨多羅三藐三菩提と名づく。無我無人無衆生無寿者を以って一切の善法を修すれば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を得。
この心は本来我々すべてに備わったもの。
自然智と言い、仏性というものに等しい。
阿耨多羅三藐三菩提(無上正等菩提)とはザックリ言えばこの上なき「悟り」であるが、すでに我らのうちにある。新たに得るものつけ足すものなど何もない。
これを阿耨多羅三藐三菩提心という。
どこを探そうとも我々の内にしかない。銀河の果てに行こうがほかにはない。
そこを抑えて生きる。それが仏道を生きることだと思う。
利発だろうが鈍根だろうがそこをおさえて生きれば仏道です。
「箒の聖者」と言われるパンタカは愚鈍の人にしてただ掃除をしながら心の垢を除くと思えと釈尊に教えられてついに覚者となった、
垢を本有の本有の宝珠が光を増す。
この心を踏まえ、諸々の善なる行為を為す。
これは我々の知の所作で考えないといけない。
この阿耨多羅三藐三菩提心は万物を活かす知恵だから植物にも動物にもある。
動植物には本有の知恵はあっても、人間のような高度な思考はない。
逆に人間は高度な知的思考はあっても本有の智惠は埋もれてしまっている。
ただそれを認識して善行を行えるのは人間という「法」の器だけです。
「横川法語」に言う、「それ一切衆生三悪道を免れて人間に生まれること、大いなる喜びなり」というのもこのことではないでしょうか。
「無我 無人 無衆生 無寿者を以って一切の善法を修すれば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を得。」とは無分別の智惠で善をせよということ。
相手を見て差別の相に住するのではなく、仏性を持って仏性を供養する。
仏性ということは全てに平等です。
ここのところは言うは易く大変に難しいが、これができればもう「即身成仏」の境界でしょう。
法華経で言うなら「唯仏、与仏 乃能究尽 諸法実相」ということになろうかと愚考します。