須菩提、阿耨多羅三藐三菩提心を発する者は一切の法に於いて、応に是(かく)の如く見、是の如く信解して法相を生ぜざるべし。
釈尊は須菩提尊者にいいます。
無上菩提を発するものは一切の法において前述のようにみそなわして、「法相を生ぜざるべし」と、
もちろん、仏教には因縁生起や空の教えなどいろいろ教義的なものはあります。
しかしこれらを満たしたとしてもなお、法に決まった形などないのです。
それは実践の生きた法というものはそんな標本のようなものではないということです。
如何が人の為にも演説せん。
相を取らざれば如如不動なり。何を以っての故に、一切有為の法は夢幻泡影の如く、露の如く亦(ま)た電(いなづま)の如し、応に是の如き観を作(つく)すべし。
では仏法はどう説くべきなのか?
そのどう説くかなどという思案がそもそもダメなのです。
それが第一の迷いだ。
形にこだわらず法を説く?
一体どうやって?それは説く以前にまず生き方です。
生きざまが本当の説法であり仏法です。
書物や演壇で話す法も大事だが、いわばそれは法の標本だ。
それだけじゃ全然生きてない。
一切の存在は露の如く、いなずまの如く過ぎ去っていく。
その一瞬に仏法をいきざま表す。人に与える瞬光のようなものである。
「ああ、こういうことなんだ」という感動こそが生きた説法。
どうやって?
過去七佛はじめ諸仏の教「諸々の悪をなすなかれ 諸々の善を行い奉れ」
言葉にすれば八万四千の法蔵も簡単なことだ。
これに尽きよう。
補闕圓満真言(オンコロコロジャッポケイソワカ)
そして補欠真言、ここにこの真言があるのはおおいに意味がある。
私たちのやることに完全無欠などない。
生きざまに仏法を表すなどと言っても、過ちは其の千倍、万倍も多い。
誰でも同じだ。
だからこそ補欠真言。常に補欠真言。
その心を忘れない。
私に間違いはないというくらい大きな間違いはないのだから。
だから私たちは宇宙創造の神の化身だの釈迦やキリストの生まれ変わりだの自らそういう人を断じて信じてはならない。
そんなものは絶対にいないのだ。
おわり