ある人から「金剛般若経」の提唱をしてほしいと言われましたが、それをするだけのものが私には到底ないので濱地天松居士の編纂せられた「金剛般若経要品」の拙い解説を試みていきたいと思います。
濱地居士は金剛般若経を受持読授すること多年、その名の通り在家の禅者ですが、その徳は深く、師の日置黙仙禅師を開山として鎌倉市大船の地に無我相山黙仙寺を建立し、大船観音の造立にも中心的に尽力され、後の曹洞宗管長高階籠仙禅師も私淑したという近代禅者の傑物的な人です。
私は私の若いころ、今は無き池上公園の弁天堂で林天朗居士という居士のお弟子さんと出会って居士の教えのすばらしさ、金剛経のことを知りました。
これはまさに弁才天のお引き合わせだったと思います。
天松居士も天朗居士も私も弁才天を信仰する信者であります。
金剛般若経は大般若経の五百七十七巻能断金剛分に当たり、比較的に長いお経ですので天松居士はこれを日常的に読めるよう抜粋したのが要品です。
此の能断という般若の性格はのちのチベット仏教の法であるチュウ(能断)に受け継がれているように思います。
まず全文を掲げます。
【金剛般若波羅蜜経要品】
須菩提(しゅぼだい)意に於いて如何、身相を以って如来を見奉るべしや不(いな)や、不なり世尊、身相を持って如来を見奉ること得べからず、何を以っての故に、凡そ所有(あらゆる)相は皆、これ虚妄なり、若し諸相の非相なることを見れば即ち如来を見ん。この諸々の衆生は復た我相人相衆生相寿相無く法相も無く亦、非法相も無し。
色(しき)に住して心を生ずべからず、声香味触法に住して心を生ずべからず、応(まさ)に住するところなくして而もその心を生ずべし。諸心皆、非心たり、これを名づけて心と為す、所以は如何、須菩提、過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得なればなり。須菩提、我が阿耨多羅三藐三菩提に於いて乃至少法も得べきものあることなき、これを阿耨多羅三藐三菩提と名づく。無我無人無衆生無寿者を以って一切の善法を修すれば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を得。
須菩提、阿耨多羅三藐三菩提心を発する者は一切の法に於いて、応に是(かく)の如く見、是の如く信解して法相を生ぜざるべし。須菩提、言う所の法相なるもの如来は即ち法相にあらず、これを法相と名づくと説き給う。如何が人の為にも演説せず、相を取らざれば如如不動なり。何を以っての故に、一切有為の法は夢幻泡影の如く、露の如く亦(ま)た電(いなづま)の如し、応に是の如き観を作(つく)すべし。補闕圓満真言(オンコロコロジャッポケイソワカ)
須菩提(しゅぼだい)意に於いて如何、身相を以って如来を見奉るべしや不(いな)や、不なり世尊、身相を持って如来を見奉ること得べからず、何を以っての故に、凡そ所有(あらゆる)相は皆、これ虚妄なり、若し諸相の非相なることを見れば即ち如来を見ん。この諸々の衆生は復た我相人相衆生相寿相無く法相も無く亦、非法相も無し。
須菩提はスブーティー尊者のことで「妙なる菩提」の意味。大乗仏教の中核である「空」を解すること、釈尊の十大弟子の中で第一の者であると言います。
とりわけ般若経にはよく釈尊に諸声聞(釈尊の直弟子)の代表として登場します。
釈尊は「姿を持ってその人を如来と言い定めえるか?」と聞きます。
如来(悟りを完成させた存在)には大乗仏教ではそれを神格化するために三十二相、八十種好という身体的特徴が伴うと言われていましたが、ここで須菩提は「否なり」と答え、明確にそれを否定されています。
つまり姿によって如来とは言えないというのです。
続いて須菩提は「なぜならあらゆる表面的な姿は皆虚妄であるからです。」と言い、如来の神格化だけに限らず「すべてそのような姿によって定められるものはいないのです。」と答えます。
つまりそれを知ることが如来を真実の姿を知ることだというのです。
「諸相の非相なることを見れば即ち如来を見ん」というのがそれです。
ここのくだりは元の金剛経でははじめ「三十二相、八十種好という身体的特徴を如来の特徴である」と須菩提は答えますが、釈尊は「転輪聖王」も同じ三十二相、八十種好という特徴があることをあげて「では転輪聖王もまた如来なのか?」とさらに質問され、須菩提は大きく理解を変えるのです。
しかし、解空第一の須菩提は単位如来にとどまらず、あらゆるものを姿でとらえることは真実の意味でできないのだと悟ります。その見方こそが如来を見ることになる。
如来だけでなく、衆生においても様々な姿は在れども、それのみで見れば真実に衆生を見ているとは言えない。
「我相」(主観)「人相」(客観)「衆生」というまとめたものの見方で見ることも、あの人は幸福だ。この人は不幸だというものの見方「寿者相」も・これが仏法「法相」だとか仏法でない「非法相」とかも、そのような固定的なものの見方は間違いである。
なぜならそれらは時間とともに変化して行く姿の一瞬の姿だからだといういのです。
仏教ではこれを「諸法無我」(諸々の存在に不変の本質はない)と言いますがそれは「諸行無常」(存在は変化して止まない)と別儀ではない。
無常によりおのずと無我は知れるのです。
つづきは帰宅後に書きます 合掌