金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

十一面観音菩薩随願即得陀羅尼経 講義    その6

「富貴自在 無病安楽 知恵と弁才を得、世 出世 こととして 心にかなわずはなし

乃至 無上菩提を証得せん。」

 

ここは観音様の御利益を説く流通分ですが、十一面観音のご利益は具体的には十種勝利 四種果報と言います。

 

諸の病を離れる    健康を守られます

如来の接受を受ける  強い仏縁を得られます

財穀を獲得する    食べ物と金銭を得られる

怨敵の害を受けない  危害を加えられて殺されない

国王の慰問を受ける  貴人の縁を得ます

毒薬にあたらず    毒にあったて死ぬことがない

呪詛や寒熱によって病にかからない   呪いや季節変化による病に倒れない

水に溺れず

火に焼かれない

夭折しない    以上は水死、火災による死亡や若死にしないということ

 

国王の慰問はともかく、そんなに人にずばぬけてどうというご利益はない。

まあ、無事息災ということがほとんどです。

一見これらはおしなべて普通に暮らせることを言っていますが、実は普通に暮らせるのがいかに「縁」に守られているかということを再認識しなくてはいけません。

それは運がよかったからと思う言い方もあるでしょうが、「縁」がかたちになったのが「運」です。

新年になると「明けましておめでとう」と言いますが、これは一年無事に開けておめでたいという意味です。普通に暮らせればありがたいというほかないのです。

 

私など過ち多く愚かな人間でありながら、今日まで大病で入院もせず、大きな事故や火災、水難、殺傷の難、早死になどで死なずに、怪我や殺傷似合わずに五体満足にして息災に生活ができてきたのは皆、ことごとく観音様のおかげ、人様、世間様のおかげだと思っています。

十種勝利は成就し、その有難きご加護を想えばこの上は人として何ひとつ不足は感じません。

 

「もし女人あって女の身を捨てんと願ってこの呪を誦すれば女を転じて男子とならしめん」

こういうことを言うとすぐ女性蔑視だといいますが、時代背景を考えないといけません。

インドでできた仏典にさえ仏に「妻子、奴婢を施す」という言葉がある。

古代インドの身分社会を背景とした宗教が仏教です。

女性には男性と同じ人権がなかった時代の話です。

それはインドだけでなくどこでも概ねそうでした。

人類発生時代の名残で男は外で危険な狩や力仕事をして、女性はそれを裏でささえるスタイルがつづいてきたからでしょう。

勿論これがそのまま現代の社会では通用しないことはいうまでもありません。

皆等しく同じ人権があると認めるのが今の世の中です。

最近では保護下にある子供にさえ勉強を強要しすぎるのもハラスメントと言われ出しました。

昔の教育ママや教育パパは通用しなくなってきています。

 

こうした考えも程度問題でしょうが、日本では匙加減なくすべて法制化に結び付けるところが具の極みです。考えたりするのが嫌なのでしょう。

だからドンドン馬鹿になる、この間のどこだかの県みたい「子供の一人留守番はならぬ」というようなバカなお触れも出る。

「所生のところ、常に仏前の蓮華にあって化生せん

もしくは人間にあっては輪王となるを得る

 常に法輪を転じ涅槃を究竟する」

これは来世の話でしょう。

四種果報と言い、

臨終にほとけ様がきてくれる

地獄、餓鬼、畜生、阿修羅道に生まれない

非業の最期を遂げない

極楽に生まれることを得る

となっています。

このお経では人間に生まれたら「輪王」になる。仏教でいう理想の王です。「転輪聖王」ともいう。

釈尊は輪王かブッダになる定めだったといいます。

若し十一面様の縁を得た来世では転生して理想の王のような素晴らしいリーダーになれるという意味に想います。

 

「その時 観世音菩薩 此の呪を説きおわって 一切衆生 歓喜讃嘆して

仏を巡ること三匝して礼を増して去りにき」

この終わりかたは通例ですが

観音経のように「衆中八万四千の衆生、皆、無等等に阿耨多羅三藐三菩提心を発したまえり」というようなものもある。

要するに聞いてる皆が「悟った」というわけです。

これはそうではなく「歓喜した。」とあります。

このお経は仏道の初門です。法華経のような教えのお経ではない。

観音様に触れなさい。というだけ。ザックリ見て深遠な教義などはない。

いわんとすることは悟るのではなくまず仏縁にふれることです。

つまらないようですが、だれでもできるという素晴らしさがあります。

丁度お念仏の難しいこと言わずに十念すれば極楽往生するのにも通じたものでしょう。