仏と我との出会いは原因がある。
業業流転の際にも仏教の種があって、はじめて今このお経を聞くことができた。
あうことができた。
でもドンドン時代をさかのぼれば仏教がない時代まである。
ではその「因」はどこから出てきたのか?
本当は仏教はまだない時代でも。御釈迦様が出ない時代でも仏性そのものは人類以前からある。
仏は無始の過去からある。
仏教以前よりある。
人類以前よりある。
仏教は命とともにある。
生命の流転の中にはじめからある。
魚や昆虫にも鳥にも獣にも、今はいない恐竜や三葉虫にもある。
人間になってはじめて認識できるけど。
例えば、動物だって脳みそはある。
でも自分に脳みそがあるのは知らない。認識はない。
知らなくてもある。
同じことだ。
それが本当の「因」だ。
仏と我と縁がある。
時間軸で言えば「因」
空間軸で言えば「縁」
これも仏縁は万物にある。
仏と仏ならざるものが出会うのではない。
「仏と仏のみ。いまし実相を究尽したまえり」
仏性が仏性と出会って火花を噴く。
それが密教で言えば第二三昧耶。
曼荼羅を見てなんだかわかんないけど感動する。
妙にお経の声にひかれる。
皆内なる仏の所為だ。
そういう兆しの時だ。
でも、今ここから初めて整うのではない。
それを考えれば仏教もそうだし、この「延命十句観音経」との出会いもまたまさに出会うべくしてであったのだと思います。