僅か十句の短いお経 だがここに観音信仰の神髄がある。
そのむかし霊元天皇が霊空和尚に一切経中の白眉として選ばせたという。
僅か四十二文字
観世音。南無仏。(かんぜおん。なむぶつ。)
与仏有因。与仏有縁。(よぶつういん。よぶつうえん。)
仏法僧縁。常楽我浄。(ぶっぽうそうえん。じょうらくがじょう。)
朝念観世音。暮念観世音。(ちょうねんかんぜおん。ぼねんかんぜおん)
念念従心起。念念不離心。(ねんねんじゅうしんき。ねんねんふりしん)
長々お経をあげて功徳があるか、あるけど必ずしも長々上げなくても同じ功徳がある。
だからこのお経をお勧めする、
「観世音 南無仏」とは
観世音を念ずれば一切の仏を念じるに通じる故である。
釈迦も彌陀も大日も不動明王や地蔵菩薩も観音のうちにまします。
同時に阿弥陀や釈迦の中にも一切仏がまします。
これは曼荼羅という考え方。
一仏の中にすべての仏がある。
仏教は単なる多神教ではない。みな通じている。
だから観世音を祈ればすべてを祈ることに通じる。
だから何尊の御前でこのお経を揚げても差し支えはない。
観世音とは世の音を観るとよむ。
世の音を聞くとは言っていない。
世の音とは世俗の営みそのものであり、それをみそなわすのが観世音。