お前は般若心経の功徳の源を知っているか。
般若心経は悟りの智慧を説いたものと言うが、そのようなものは読んでみて悟れるものではない。ゆえにそれを読んでわかるからはじめて功徳があるものでもない。
「観自在菩薩 深般若波羅蜜多を行ぜし時、五蘊は皆空なりと照見し、一切の苦厄を度したまえり。」
まずこの一句を汝らの多くが言うがごとく「観世音が深く般若波羅蜜多を行ぜし時、五蘊皆空と明らかに見た」と言う解きようがそもそもの間違いなのだ。
五蘊皆空と見たのは観自在菩薩ではなく衆生だ。
観自在菩薩はもとよりそのようなことは知っている。ゆえに等覚妙覚の大菩薩なのだ
そしてその智慧はすなわち観自在菩薩の行化の力・般若波羅蜜のみわざによりもたらされたるものだ。
「一切の苦厄を度したまえり」とは衆生の苦厄をのぞかれるという意味だ。
除かれるのは観音の苦ではない。
それでは大慈大悲の菩薩にならぬ。
ここに根本苦が除かれるには薩波若智をもってするしかないとうたっておる。
般若波羅蜜多は座禅止観ではない。
それをいうなら禅那波羅蜜だろうよ。
般若波羅蜜に形などない。止観で非行非座三昧と言うのとおなじことだ。
此の経の深般若波羅蜜とは融通無碍の観音の救いのはたらきを言うのだ。
観音のもたらす利益のうちもっとも大なるものが般若への導きなのだ。
それ以外に一切の苦厄をのぞくものはない。
もしあるのなら悟りはあえていらないことになろう。
故にそれをそのままに説くこの経はそのままに是大神咒・是大妙咒・是無等等咒なのだ。
読めば霊験あるのは心経には観音の救いの働きが込められているからだ。
救われるのは読んでわかって智慧がつくからではない。
そのように安易にわかるものではない。
いまだ悟らざるにさきに救いを得るからこそ大乗なのだ。