金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

大聖歓喜天使咒法経偈 私註 その3 後半

「上品持我者 我与人中王 中品持我者 我与為帝師 下品持我者 富貴無窮巳」

上品に我をたもたつ者は我は人中の王たるを与え、中品に我をたもつ者は我は帝の師となるを与え、下品に我をたもたん者は富貴無窮ならしめん。

 

古来この一文をあげて上品、中品。下品の三供養をして、順に密教の灌頂をあらわす祈願法である「浴油供養」如法供の略儀である「華水供」顕教の般若心経、観音経の「読経などの供養」に充てるのが伝統的解釈になっています。

しかし、まことの意味では正しく仏法を理解する順で上 中 下であると私は考えています。行われるご祈祷の種類ではないと思います。

そもそも、そのようなことは使咒法経には何も書いてありません。

伝教大師のお言葉を借りるなら、よく言い良く行う者は国宝で上品

よく言う者は国の師で中品、良く行う者を国の用で下品の供養の果であると私は思います。

世間や衆生のため良く言い良く行う者が上品の供養

よく言うのが中品の供養

良く行うのが下品の供養と考えます。

 

「恒欲相娯楽 無不充満足 奴婢列成群 美女満衢庭」
常に相娯楽せんと欲す。充てざるはなく満足す。奴婢はつらなりて群れを成し、美女は衢庭に満ちなん。

 

こうした仏道らしからぬ一文があるので普通のお寺では使咒法経など読まれては困るのでしょう。

そもそも使咒法経は密教のお経であり、俗人が勝手に見てはいけないお経になっています。密教の智慧のないものは大いに誤って読むからです。

密教の智慧とはその修行によって得られるもので、本など読んでさえいれば必ずしもわかるというものではないのです。

実際に愚かな人は聖天様を信仰すれば、その御利益で王宮のハーレムのようなところで沢山の美女に囲まれ美酒美食を楽しみ、召使を想うように使えるような贅を凝らした王侯貴族のような生活ができると思うかもしれません。

拙寺にもたまにそうした誤った聖天信仰を心に秘めてやってくる方があります。

そういう心が見え隠れするや「当院の尊天はあなたの求める御利益は全然ないので信仰は止めておきなさい。」といっています。そう言う人には事実のことです。

 

これは古代インドの王侯の生活で聖天様の利益を表現しています。今のことでありえません。経典のできた7世紀前後の時代背景を考えれば、このような方便もおかしなことではないと思いますが、しかし、あえて密教の立場から深秘釈でいえば、これは曼荼羅世界の表現だと思うのです。

 

曼荼羅世界では仏波羅蜜などの自在の采女が遊び、八供、四摂の女菩薩が舞い、仏菩薩は相互に力を尽くして奴僕のように給仕を惜しまぬ仏仏加持の世界が展開しています。

密教的な目で見ればこの世はさながらに他化自在天の宮殿にも優れた曼荼羅世界なのです。ただ、そこで展開しているのは五欲の歓楽ではなく。法の楽しみです。

これはそのことを言うものと思います。下品な歓楽を極められる意味ではありません

 そのような手立てとしてのみ聖天に近づくものは。常隋魔である毘那夜伽の魔網にかかって大いに災いを呼ぶものと考えねばなりません。

 

この世を矛盾に満ちた穢土とみることもできますが、悟りの目でみればこの世はそのままに浄土とみることもまた自在です。

法華経の言葉で言うなら「衆生劫尽きて大火に焼かれるとみるときも我が此の土は安穏にして、天人常に充満し、園林諸堂閣種々に荘厳せり」と言うのと同じ心です。

 

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