天台は顕密双修である。
そこで密教ではもっぱら無量寿如来修観行供養儀軌によって組み立てられた修法を拝むことが多い。
無量寿如来は阿弥陀如来と同じでもっぱら念仏信仰の論拠である大無量寿経と言うのもすなわち阿弥陀信仰を説く顕教の代表経典である。
密教であるから一般の人にはなかなか修せないのでそこは念仏の方が万人等しくという点でははるかに勝れた手だてであることは否めない。
しかしこの密教儀軌にも便法はある。
儀軌の最期にオンアミリタテイゼイカラウンという小咒を10万遍唱えれば、なんと目の当たりに阿弥陀仏を拝見し決定して極楽往生するという。
これは密教修法しなくてもできる。
10万遍も唱えるならば大無量寿経の念仏往生はわずか十号だから念仏の方が上じゃないか?と言う人があがればそこはいかにも愚か者のいいそうな考えだ。
大無量寿経にはその往生には五逆一闡提、誹謗正法は除くという。
そんな悪いことをしてる人はそうそういないだろうが・・・この五逆一闡提とかはこの世の罪とは限らない。前世であればわからないのだ。
無量寿儀軌の心は大咒である。
これを一遍唱えれば十悪四重五無間罪を除き、あらゆる罪障を滅ぼして戒品清浄となるという。
しかし、密教では儀軌通りなら大咒を100から1000辺唱えることになる。
最低でも100辺唱えなさいと言う。それが密教の修法上のルールだからだ。
結構大変だ。
だがそうは言っても私は実はどうだからどっちの方が上とか下とかいう気はさらさらない。
かく言う無量寿儀軌も大無量寿経を絶えずに読めと言っているしね。
両者に矛盾があればそんなことは言うまい。
要はこれは人が阿弥陀仏に信を届けられるか否かと言うそれだけのことだ。
数の少ない多いではない。念仏にも真言そのものに大した違いはあるまい。
シッカリやった感覚が欲しければ大咒1000遍とか略咒10万遍もいいだろうし、イヤイヤ所詮人の努力のおよばぬところと心底本願を頼む気になれば念仏10回でもいいだろう。
親鸞さまも「いずれの行もおよびかたき身なれば・・・」といわれている。
そういう体験がないとなかなか本願は拝めないのではないかと思う。
だから昨日今日誰かにふきこまれて耳学問で知ったような奴に「念仏だけが本当の救いなんです。他は全部駄目なんです、」と喋々と言われても、「ああそうかい。そいつはよかったね。じゃアンタはそれやんなよ。」でお終い。ちゃんちゃらおかしいわ。
ただ実際は念仏10回とはいうものの浄土門の熱心な人は10回どころか四六時中唱える。
念仏10回で往生できるというありがたさを味わうことこそが信仰の本質だからそこは何遍でもいいのだ。と私は思う。
10回以上となえては不信と言うことではあるまい。
そう考えれば念仏も真言も所詮阿弥陀仏に心を運ぶための道具に過ぎない。
さらにいえば密教だろうと顕教だろうとそのための道具だ。
「法とは筏のようなもの 岸に渡ればいいだけ。法自体に執着しても意味ない。」と金剛般若経に説かれている。
どっちでも好きな方でいい。勝劣なし。
私はそう思う。
私は自分の家の仏壇では阿弥陀の小咒をよく唱えるようにしています。