「 険難のところを救い安穏ならしむ
若し毎日108辺誦すれば 万病消滅し 寿命は長遠に
常に十方の諸の仏に讃嘆護念せられ 財宝衣食少乏なからしむ
衆人に恭敬愛念せられ さらにまた一切の災横 鬼 蛇 刀杖
毒薬 呪詛 怨賊 水火の良く害するところをなすことなし
怖畏を遠離し安穏をを獲得せん
命終の時にのぞんで十方の仏にまみえ 極楽に往生して地獄に堕せず 」
険阻のところ難儀を救って安穏を与える
これは観音の代表的的なご利益です。
つまり安穏、息災の仏です。
ほとけは三毒熾盛の甚だしい願いに相応するものではない。
でも息災はすべての祈願の大本です。
「災いをやむ」という意味です。
たとえ金殿玉楼に住んでも悶々として夜も不安で眠れないとか、
億万長者になっても病になっては少しも幸せを享受できない。
そうでしょう。息災こそすべてのご利益の根底。
その息災の利益を得るためには毎日108辺唱えよという。
108は半端な数ですが、おおむね数珠を珠をもって一めぐりすれば108顆となっています。
本来100なのだが8は補欠分です。つまり数え間違いやこころ乱れた念誦の穴埋めについている。
この様に日々108辺唱えるなら鬼や蛇や凶器、毒薬、呪詛、怨敵、火災、水難の害も受けないとある。
これらはみな命を失いかねない災難です。
当院では聖天様がおわしますがこちらは招福の天尊。
であっても根底に息災のベースがないなら本当の招福にはならない。
砂上の楼閣のような一時的なご利益となる。
だから聖天信仰でも観音信仰がベースなのです。
観世音菩薩の御加護にてそうしたもろもろの害を遠ざけて安穏な一生でも、人間には必ず寿命が尽きる時が来ます。
十一面観の印を信仰するなら、いよいよ最期の時には諸仏の示現に預かり、極楽に往生する。
「毘沙門天王霊験記」という御本に命終の時、両の手に十一面様と毘沙門様が現れて見える。
そんな霊験の話が書かれている。実際あったことだと思います。
この話の方は毘沙門様の信者なのでしょう。「毘沙門天王霊験記」ですものね。
古来、阿弥陀様を信じていると眷属を従えて臨終に迎えにおいでになるという。
阿弥陀様の来迎と言います。
真宗ではもう阿弥陀の本願は成就して一切衆生はすでに往生していることになっているから来迎は言いません。
私は特に阿弥陀仏の信仰はないけれど観音様は極楽の出先機関ですから、観音様さえ拝んでいれば、たとえ「南無阿弥陀仏」の一返もとなえなくても。その方は極楽に行けるのだと信じています。
極楽は「凡聖同居土」という浄土ですから特に立派な人でなくともいかれるということになっている。
極楽の教主は阿弥陀様ですね。密教の「阿弥陀儀軌」には現世のことはほとんど観音様の担当であるように書いてある。
まあ。観音信仰は極楽の地上での代理店です。
むかし若いころの話です。
ある念仏の狂信的集団の道場に連れていかれて「観音信仰」をしているというとおおいにそれをえらくなじられた。
「観音なんかみたいな糞だ」というので「へえ、じゃあ糞みたいなものが阿弥陀様の一番弟子なわけですね。阿弥陀様も御気の毒にね。」と笑ったらドン引きした。
ものを知らずに人をなじるというのは哀れなものです。
後はなんだか相手はやたら怒っただけ。でも話にもならずバカバカしいから捨ておいて引き上げた。
帰りには敵地なので「ご苦労様で~ス」と連発しながらニコニコ引きあげた。
みな信者と思ってか愛想が良かった。
観音様は阿弥陀如来補処の菩薩です。つまり阿弥陀様の後継者。
次の後継者は勢至菩薩様です。
でも永遠の菩薩ですからこれはその内証をいうものでしょう。
阿弥陀様は無量寿仏ですから亡くなることも隠退されることもないと思いますので。