准胝様は天台では仏母ということになっています。
論拠は胎蔵曼陀羅の仏母院にましますこと。
阿弥陀の化身である化仏の代わりに五智宝冠を被ること。
眷属八大菩薩に観音があること。さらに言えば観音の出離の誓願である「往生極楽」を謳っていないこと。
ですが、いっぽう観音とする説には「讃」に観音の梵名が登場することがあげられて天台の不空羂索観音を外して「六観音」に数えられています。
残念ながら落雷で焼失した醍醐寺の准胝尊は西国三十三観音に数えられます。
※廣澤方では事相上、仏母とするようです。
密教の事相上の区別を離れれば、信仰する方にとっては別にどちらでもいいと思うのですが、
准胝様の誓願は先に「准胝院さん」がブログで挙げておいてくれたように滅除業障 仏道促進ということが主眼です。
財宝だとか除病だとか現世の利益ということは声高にあまり言ってはいない。
持物の解説に見る限りには古来有名なご利益である子宝や延命は謳っていない。
では現世利益は薄いのか?
決してそうではないのだと思う。
准胝尊を拝む人の理解の中にはすべての福智は滅除業障を先とせねばならないという仏法への一歩進んだ考えがあるのです。
これは世間一般の仏様を拝んで御利益にあずかるという考えよりはるかに仏教への理解が根底にある考えなのです。
准胝尊を拝む方はそれだけ仏縁がより深い人なのだといえる。
准胝尊を礼拝する者はそのまま仏道修行者でもある。
滅罪なくして現世の幸福もない。
逆にそこがわからない人は准胝尊に関心を寄せない。
同時に准胝尊には十八臂のうちに施無畏の手がある。
これが私は「観音の手」だと思います。
観音菩薩は施無畏者です。仏母は観音の手を持つ。
それは観音と誓願を同じくすることの表示です。
観音菩薩は現世を救うみほとけの代表選手。
観音菩薩の一切の恐怖を除き、衆生の抜苦与楽をはかる准胝仏母の大いなる「現世利益」はここに示されているのだと思います。 合掌