四無量心の最後は「捨」です。「捨」は実は大いなる供養のことです。
供養で大事なのは「捨」。
即ち捨てる心
恩に着せた見返りを期待するのは供養ではない。
ゆえに布施を「喜捨」捨てるを喜びという。
達磨大師が武帝の堂塔建立や僧尼を養うことを無功徳と喝破したのもそのためだ。
功徳を図るのは捨にならない。
淀君や豊臣秀頼は徳川家康の口車で方々の寺社に寄進しまくって大阪城の軍資金までも使い果たして夏の陣で滅んだ。
功徳を見込むからそこに無理がある。
邪教に借金までして莫大な金を貢ぐのはハッキリ理えば愚かさの生んだ自業自得だ。
家族のバカさ加減に対する八つ当たりで総理経験者を撃ち殺しても罪業にしかならない。
喜捨は無功徳の功徳と知るべし。
ゆえに忘れられる額を奉納するがいい。分限を超えた無理な布施など布施にならない。
虚空庫菩薩の三昧
あまり聞かない菩薩ですが理趣経の九段目に登場します
虚空庫は虚空蔵菩薩より今一歩踏み込み、供養の実践を現します。
「菩提心供養」 菩提心を起すこと自体が最も大なる供養のはじまり
大乗の菩提心は田だけ脱を志す心ではない、衆生利益のための仏智を目指す境涯。
此の心を起すことがそのまま如来への供養となる。
「救度供養」何方を助けても誰を利益しようともそれは如来への供養となる。
たとえアリのようなものでも間違いなく如来への供養となる。
「妙経供養」大乗の妙典を受持し信仰することは大いなる如来への供養となる。
この教典あってこそ仏道を歩める
「般若供養」さらに仏智をしたためた最上の経典、般若経への受持や信仰は最上の如来への供養となる。
いかなる仏教でも顕教であっても密教であっても薩般若智を求めないものはない。
要は其の求める手立ての違いに過ぎない。
この境涯は一切衆生は妙法蔵を具するという。
ゆえに疑いを捨て慢心を捨て、己を捨てても何を捨ててもそこに仏性は残るのだ。
ゆえに供養は其の侭とはすでにある自他の宝を掘り出すに似ている。
供養の極致は仏仏加持。
仏性が仏性を供養しあう。それがありのままの実相世界。
仏性を開発したらもう供養はいらないのか?
否、仏性と衆生利益は一つなのだ。
完璧なるがゆえにもう何もいらないのではない。
それは完ぺきではなく閉鎖だ。
無限に際限なく開かれているからこそ真如と言えるのだ。
動物はエサを食べて排せつする、これも捨だ。
だが捨は同時に大地の植物を養う供養でもある。
自然は捨と供養とを区別しない。
この原理は何を供養しても自身自供養につながる修験の教えと一つだと思います。