「このわが神呪は大神験あり
一切の諸仏讃嘆護念するところなり
われ過去無量劫の前にこの神呪を受持し
十方の仏にまみえ 無生法忍を証したり
また慈 悲 喜 捨平等の法門を得て一切衆生をして無上道に安立せしむ」
これより主題の神呪、つまり真言について説かれます。
一切の諸仏が讃嘆護念する。つまりほとけによりこの神呪を讃え、唱える者は守られるという。
諸仏というのはなんの如来さまでもということです。
阿弥陀様でも釈迦如来でも薬師仏でも。
だから厳密に十一面観音のご真言だからといって必ずしも十一面音の宝前で唱えなくてはいけないということではない。
お不動様でも地蔵様でも構いません。
仏は本質は皆同じです。誓願が違うだけ。因みにその仏だけの誓願を「別願」といいます。それが仏の個性を作っています。
この真言だけでなく一切の神呪はここは同じなのです。
十一面観音はこの神呪によって過去無量の御仏にあってきた。
仏教の考えでは御仏に合うこと自体が清浄を得なくてはできない。
そういう思想がある。
例えば如意宝珠を拝むと「拝見仏像」という利益がある。
お寺に行って仏像を拝み見ることではない。
仏と言わずあえて「仏像」というのは仏は本来無形のものだからです。
無形のほとけを表現したのが仏像。
仏はああいう姿をしているわけじゃない。
定型の三十二相、八十種好というのがあるけどこれも表現に過ぎない。
だから仏というのは霊写真なんかに写らない。「無我相」だから。
心霊や人の霊とは違います。霊ではないのです。
写真になんか写りません。修行者の心の水面に映るのみです。
だからお不動様が写っている霊写真なんかがあったとして本当はお不動様でなく別な霊。
例えば眷属などが「かたち」にして見せてくださるだけです。
護摩の炎がいろいろに見える場合も同じです。仏そのものではない。
八千枚焚こうが十万枚焚こうが不動様ではない。形を見せるのみ。
ゆえにどこまでも「仏像」なのです。
悪くすると邪霊がお不動様をかたる場合もある。
比叡山などでは礼拝行と言って毎日三千遍、浄土院の籠山比丘は五体投地の礼拝を繰り返し、仏とまみえるまで修行します。
別に霊能者になるためではない。
業が浄まった証に御仏が現前するといいます。
つまり修行が実った証なのです。
業が浄まればそれで終わりではない。そこからが本当のスタートです。
仏に護念されているという証です。
「無生法忍」というのは宇宙は実は生滅の姿を超えているという実相を把握するほとけの智惠です。
「忍」は忍ではなく、「認める」という字と同じ意味。
この境地は難しく言うとこれは「華厳経十地品」の菩薩の十段階で第七地から第九地までの菩薩の境地とします。
「大般涅槃経」に言う「常 楽 我 浄」です。
不常でなく常 苦でなく楽 無我でなく我 不浄でなく浄
般若心経などで言っている大乗のテーゼを全部ひっくり返す。
金剛般若経流に言うならば「不浄は不浄に非ず、これを不浄という」
○○はこうだ というのを離れる。
仏教の難しさは実はそこにあるのだけど「融通無碍」というのはそこがわかって初めてできる。
しかしながらこの十一面観音は十地の菩薩行を超えてさらに等覚、妙覚にある。
だから修行者としての菩薩ではない。
お顔の十という数は実は菩薩十地の修行を超えていることを示すものです。
天台大師の言う「六即」では「究竟即」という最終段階に当たる。
ゆえに如来と等しき菩薩。修行中の菩薩ではない。
観音様は我々とともに歩むがゆえに菩薩相を現して傍らにいてくださるみほとけなのです。
これはほかの大菩薩、地蔵様や虚空蔵菩薩、文殊様、普賢様も同じことです。
観音和讃に「昔は正法明如来 未来は光明功徳仏」といいます。
もう如来になられている。
慈悲喜捨の「四無量心」を備えている。衆生を慈しみ、悲しみ、益することを喜ぶ。最後の平等は捨と同じ意味、みずからの好き嫌いを捨てて平等に利益してくださる。
仏はその四つのこころを際限なく持つおかたです。
ゆえに「四無量心」と言います。 その3につづく